「最強の男」ゴロフキンが村田諒太に送ったガウンの本当の意味
第9ラウンド2分11秒。ゴロフキンの右を浴びた村田諒太がキャンバスに崩れるのとほぼ同時に、青コーナーからタオルが投入された。
白いタオルを投げ入れたのは、本田明彦・帝拳ジム会長の判断だった。
両選手のファイトマネー合計額が20億円とされ、日本ボクシング史上、最大のボクシング興行となったWBA/IBF統一ミドル級タイトルマッチ。日本政府の水際対策により、試合が決まりかけては流れた。
「コロナさえなければ、決まっていたのに。本当に大変ですよ。ゴロフキンのビザもなかなか出なかった」(本田会長)
この一戦がメガ・ファイトとなったのはWBAスーパー王者、村田諒太が今日の世界のボクシング界で有数の実力者であるIBFチャンピオン、ゲンナジー・ゲンナジーヴィッチ・ゴロフキン(愛称GGG)と対戦したからにほかならない。ゴロフキンは、過去に日本人を相手にした世界王者のなかでも実力と知名度において1、2位を争う。
ボクシングファンなら誰もが知る世界王者に日本人が挑戦したファイトで思い出されるのは、1973年9月8日にガッツ石松が、後に4階級を制し”石の拳”と恐れられたロベルト・デュランにパナマで挑んだ一戦や、1975年10月12日に蔵前国技館でロイヤル小林が、後に3階級制覇を成し遂げるアレクシス・アルゲリョに挑んだファイトが挙げられる。

とはいえ、これらのビッグネームと日本人の対戦は、相手が成長過程にある時期であった。ゴロフキンは既に揺るぎない地位を築いており、かつチャンピオン同士の統一戦、しかも歴史あるミドル級のタイトルマッチであることから、類を見ない興行となった。

チャンピオンvs.チャンピオンであったが、村田は自身を挑戦者と位置付けていた。
「チャレンジャーは、心の持っていき方が、やりやすいですよね」
試合3週間前のインタビューで、村田はそう語っていた。
ゴロフキンを相手に、「まず序盤に離されないこと、『こいつ、やり難いな。下がらないな』と思わせてプレッシャーをかけていく。ポイントを失っても、1ラウンドから3ラウンドまで流れはとらせない。初回からしっかり仕掛けていく」プランを立て、リングに上がった。
実際、立ち上がりの村田は作戦通りに試合を進める。下がらない戦いぶりと、ボディーブローが光った。右ストレートを上下に打ち分ける狙いも良かった。
セコンドを務めた田中繊大トレーナーは、1ラウンド終了後のインターバルで「いい感じだ。このままで」と声を掛けている。
「ボディーを嫌がっていましたし、5ラウンドくらいまでは、行ける! と思ったのですが、徐々にゴロフキンが対応してきましたね。彼も40歳ですから、昔のような一撃必殺みたいなパワーは無いのかもしれません。あるいは、敢えて全力で打たなかったのかもしれない。ただ、微妙にパンチの角度、軌道を変えてコツコツと当ててくるのが上手かったです。村田の右ストレートも、顔、腹と打ち分けましたが、上へのパンチはなかなかクリーンヒットしませんでした。
こちらがゴロフキンを削ってやろうと思っていたのですが、向こうが巧者でした。8回が終わった時かなり消耗していましたから、インターバルで休ませて、どうすれば凌げるかを色々考えたのですが……ゴロフキンは上手かった。それに尽きます」(田中トレーナー)

ゴロフキンは試合後の記者会見で「お互いにギリギリの闘いだった。だんだん距離感が掴めるようになり、自分のパンチが当たるようになった」と話した。
WBAチャンプは敗れた。だが、最強の王者に真っ向から挑み、己の全てを出し尽くした村田諒太の姿は、見る者を熱くさせた。ボクシングという競技の魅力を、十二分に伝えるファイトだった。
本田会長も「最高の試合を見せてくれた」と振り返り、リング上でゴロフキンと抱き合う村田には、会場のあちこちから「ありがとう!」という声、そして万雷の拍手が送られた。
決戦3週間前のインタビューの際、デビュー直前の村田が、彼の父から受けた言葉に涙したエピソードについて私は訊ねていた。
村田の答えは次のようなものだった。
「切羽詰まっていて追い詰められていたんだと思います。父が送ってきたメールがグサッと胸に刺さったんですよ。当時、2歳だった息子がソファから何回も何回もジャンプする姿を、僕たちに見せたんです。
父は『彼はそれが出来ることが嬉しいんだね』と。今まで出来なかったことが、出来るようになって嬉しい。それを一生懸命に皆の前でしているんだと。人間って成長することが好きなんですよ。そして出来なかったことが出来るようになる様子を見ていると、周囲も嬉しいじゃないですか。
父から『諒太もそういう気持ちでいいんじゃないか』という言葉を掛けられた時に、そうだなぁ、プロになって色んな経験をして、こういうことが出来るようになった。デビュー戦は、それを披露する場なんだと。勝った負けたじゃなくて、そこに注目してみようかなと考えたら、気持ちが楽になったんですよね」
ロンドン五輪で金メダルを獲得し、2013年8月24日のプロデビュー以来、村田は”出来ること”を増やしてきた。ミドル級最強の男と対峙しても、怯まずに攻め続けたメンタル。新型コロナウイルスの影響で2年4カ月ものブランクを強いられながらも、地道に己を磨き抜いたことがプラスとなった部分もあったであろう。折れない精神で、ゴロフキンのパンチを何発浴びても前に出た。
また、効果的だったボディーブロー、得意の右ストレート、今回の試合まであまり見せなかった顎への右アッパーなど、村田は36歳にしてベストな己を作り上げた。19試合のうち、ゴロフキン戦こそが、彼のベストバウトと言っていい。

「ボクサーとしてどれだけ強くなったのかっていうのは、自分では分からないのですが、人としてお前は何なんだ? と、自分に問い掛ける時間があるんです。ゴロフキン戦前の今だから、大事な試合を前にしているからこそでしょうね」
準備が良かったからこそ、試合も白熱した。
一般的に日本のボクサーは、メインイベンターになると派手なガウンに身を包んでリングに上がる。しかし村田はずっと、Tシャツ姿で花道を歩いた。余計なことに気を取られず、自らの生き方を自問自答しながら、また、常に人間として成長することを考えながらキャリアを重ねてきた。そんな彼に、ガウンは必要が無かった。
その点について質すと、彼は言った。
「スポンサーがガウンを着ろって言えば着ますが、今は必要ないから着ないって感じですかね。考えたこともありませんでした。まったく気にしないですね」
が、今回、激闘を終えた村田は、初めてガウンを羽織ってリングを降りた。ゴロフキンからカザフスタンの民族衣装であるチャパンを贈られ、袖を通したのだ。背中にGGGの文字が入ったブルーのチャパンを着た村田は、何度もファンにお辞儀を繰り返して控室に消えた。
試合後の記者会見でゴロフキンは、「カザフスタンでは、最も尊敬する人にチャパンを贈る習慣があります。村田諒太への敬意を表しました」と胸の内を語った。

村田は試合会場に、自分にとって何よりも大切な家族を呼ばなかった。
「小5の息子と小3の娘に、意図して何かを見せようということは無いです。ただ、一生懸命やっていますし、試合も一生懸命な戦いになると思います。自分の経験を通して、子供たちや、僕を目にする人にこれから先、何かを教えてあげられたらと思います」
そう言って自らを出し尽くした。
子供たちは近い将来、父が手にしたチャパンの意味を知ることだろう。そして、父親がいかに勇敢に闘い、日本中を熱狂させたかを理解するだろう。
取材・文:林壮一写真:山口裕朗