自由のために闘ったクロアチア出身者が「ウクライナに思うこと」 | FRIDAYデジタル

自由のために闘ったクロアチア出身者が「ウクライナに思うこと」

4年間続いたクロアチアの独立戦争

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情報統制されていた社会主義の中でも、自分たちは自由だと思っていた 

『世界中の黄金をもっても、自由を売り渡すことはない』 

クロアチア・ドブロブニク旧市街にあるロヴリェナツ要塞の入り口にはラテン語で、このような文字が刻まれている。

今はクロアチアの一都市となっているドブロブニクだが、その昔はドブロブニク共和国という一つの国で、さまざまな国から侵略を受けたという。やっぱり「自由」というものは、どんなに犠牲を払っても守らなければいけないものなのか……。

今、ウクライナが戦禍に見舞われているが、クロアチアもかつて全土が戦場となったことがある。

現在のスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、モンテネグロ、セルビア、北マケドニアの6か国にあたる地域は、1945年にユーゴスラヴィアとして社会主義の連邦国家になった。

それを率いたのはチトー大統領だ。そのチトー大統領が1980年に亡くなり、1989年にベルリンの壁が崩壊すると、各国で独立戦争が始まった。

クロアチアも1991年から“自由を勝ち取るため”“侵略者から祖国を守るため”に戦争へと突き進んでいった。1995年に終結するまで4年間、各地で激戦が展開された。

「ただ、“民主主義になる”、“自由になる”と言われても、それがどういうことだかわかりませんでした。 工場や農地などは“社会の所有物”でしたし、情報はフィルタリングされていて、テレビは観られる番組が決まっていた。 

でも、それがふつうだと思っていました。戦争前から自由だと思っていたし、私にはセルビア人の友だちもたくさんいて、その人たちと闘わなくてはいけないなら、そんな自由はいらないと思っていました」

こういうのは、当時、クロアチアの首都ザグレブに住んでいた山崎エレナさん。

26年前に来日した山崎エレナさん。社会主義体制だったときは、お金を使うことはほとんどなく、初めて給料をもらったときは、お金の使い方がわからず、返そうとしたこともあったとか(撮影:各務あゆみ)
ロシアのウクライナ侵攻に抗議の声を上げるクロアチアの人々。ウクライナが独立したとき、すぐに国家承認をした国の一つがクロアチアだった(写真:アフロ)
ブーメランのような形をしているクロアチア。アドリア海に臨む地域は観光地として人気が高く、それもあって周辺国から狙われることが多かった(地図提供:株式会社パルテンツァ・クロアチアツアーズ)

「祖国を守るため、高校で銃の扱い方を習いました」

けれど、1991年に戦争が始まる前から不穏な空気は流れ始め、エレナさんが高校生のときには銃の扱い方を習うようにもなってきたのだとか。

「M48という小銃を与えられて、それを分解して、掃除して、組み立てて、ターゲットに向かって撃つ。そんな練習をしていました」(山崎エレナさん 以下同)

ターゲットに当たらないと、どんなに成績がよくても卒業できなかったというから驚く。

もっとも激しい攻撃を受けたのは、セルビアとの国境に近いヴコヴァル。

「あそこは本当にひどかった。虐殺が何か所でも行われ、ヴコヴァルから連れて行かれて埋められたと思われる何百人もの骨がヴコヴァル周辺の地域からも見つかっています。マリウポリの惨状を見ると、ウコヴァルを思い出します」

アドリア海に面していて、観光地として外貨を稼げるアドリア海沿岸の地域もターゲットになった。

「母の実家がアドリア海に面したシベニク=クニン郡にありましたけど、完璧に破壊されました。あれは怖かった」 

激戦地にひとつだったボスニア・ヘルツェゴヴィナとの国境沿いの地域は、セルビア人とクロアチア人の民族間の対立による内戦と理解している人が多いが、エレナさんによると、実際はこの戦闘も独立戦争だったという。

「電気代やガス代を無料にするなど金銭的な援助をしてセルビア人を住まわせて、クライナ・セルビア人共和国を作り、クロアチアを攻撃させていたのです」

今回のウクライナ侵攻で、ロシアがウクライナの国内にドネツク人民共和国やルガンスク人民共和国を作った手法と同じだ。

激戦地となった地域では、大量虐殺も行われたという。

ザグレブは激戦地ではなかったけれど、毎日空爆が10回以上あり、そのたびにシェルターに逃げ込む日々。国会議事堂やテレビ塔が破壊され、軍事施設も占領された。戦車が街中を走り回るのも、銃撃戦も日常だったとか。

「戦争は人間が人間でなくなってしまう。どちらがいい、悪いじゃないんです」

虐殺が行われたヴコヴァルの墓地で。1991年11月18日の開戦から30年経った2021年11月18日には死者を悼むセレモニーが行われた
2013年にヴコヴァルに建てられた「祖国戦争記念センター」には、戦争で死んだ人々の写真が飾られている。30年前、21歳で亡くなった息子の写真を探す女性の姿も

祖国のため、自由のために…

それでもやっぱり祖国のためには戦うのだろうか。

「それまでクロアチアは、オーストリア・ハンガリー帝国に組み込まれたり、第二次大戦時にはドイツやイタリアに一部地域を占領されていたこともありました。 だから、独立はクロアチアの悲願だったし、当時は愛国心で頭の中がいっぱいになっていて、戦わないということなんて考えられなかった。 

当時、男性の多くは兵士として戦いました。女性も軍隊に入ろうと思えば入れたから、私も行きたかった。でも、父に反対されて。そのときは、父をとても恨みました」

そんなとき、「話し合いで解決を」と言ったのは、当時、ユーゴ問題担当・事務総長特別代表の明石康氏だったという。

「彼はとても素敵な方で、人は話し合えれば解決できると言っていたんだけど、当時はそんなことは相手にされなかった。20歳の私は愛国心で頭がいっぱい。今のウクライナの人々もそうなっているのではないでしょうか。 

でも、明石さんが正しかったことは今になってわかる。だから、私は『ウクライナ、戦い続けろ』とは言えない」

“祖国のために”“自由のために”と言われるけれど、「そのためにこれだけの人が死ぬ価値があるか」とエレナさんは言う。

「私はクリスチャンだから、聖書を読みます。そうすると、聖書には、いやなことをされても許す心を持てと書いてある。 戦争のさ中にいたときは、そんなふうには思えなかったけれど、今は本当にそうだと思えます。命はとても大切だから、1日も早く戦争が終わることを祈っています」

本当に早く終わってほしい。もう爆撃された町も、逃げ惑う人々の姿も見たくない。

独立戦争の激戦地ヴコヴァルでは毎年年末に追悼式典が開催され、クロアチア中から集まった人々が追悼の行進を行っている
ユーゴスラヴィア軍に破壊されたヴコヴァルの給水塔。今でも当時のまま残されている

山崎エレナ 日本クロアチア交流協会代表理事。クロアチアの独立戦争終結後、来日。クロアチアの情報番組で日本の紹介をしたり、友好と平和のコンサートなどのイベントを企画するなど、日本とクロアチアの文化、芸術、学術、スポーツ等の振興を図る活動を行っている。

  • 取材・文中川いづみ撮影各務あゆみ写真アフロ

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