2025大阪万博はこうすれば面白くなる!

指南役のエンタメのミカタ 第3回

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1970年に開催された大阪万博のシンボルは岡本太郎作の太陽の塔。いまでも万博記念公園で存在感を示している 撮影/吉村竜也

先月、2025年に開催される国際博覧会(万博)の開催地が大阪に決まった。

街の反応は実に様々だった。地元の大阪の人たちは8割方喜んでいたと思う。1970年の大阪万博を知る世代は子供の頃を懐かしみ(当時の10歳が今は58歳である!)、若い人たちはシンプルにお祭りの開催に沸いた。一方、同じ関西人でも京都の人はちょっと斜に構えて「どうかな」なんてつぶやき、神戸の人たちは聞いてもいないのに1981年のポートピアの話を始めた。それに対して、東京を始め、関西以外の人たちは概ね他人事のようだった。

ただ――決まった以上、これは面白くしないともったいない。「あんなの税金の無駄」なんて反対する人たちもいるけど、ならば尚更面白くして、国内外の多くの人たちに来てもらって、利益を生まないといけない。これは賛成・反対に関わらず、皆同じ意見だと思う。そこで今回は、どうしたら2025年の大阪万博が面白くなるかを考察したい。

まず、万博の歴史から簡単におさらいすると、第1回の開催はロンドンで、時に19世紀の半ば、1851年だった。日本が初めて万博に参加するのは1867年のパリ万博で、この時、徳川幕府と薩摩藩が出展している。ちなみに翌年が明治元年である。入場者が初めて3,000万人を超えたのが1889年のパリ万博で、この時の目玉の展示物がエッフェル塔だった。

当時の万博は、産業革命期の欧米の、いわば産業見本市。新技術や新製品を大衆にアピールするのが狙いで、エッフェル塔もフランスが当時世界で最も高い建物を作る技術を誇るものだった。だが、20世紀に入って本格的に工業化社会が訪れると、自然と万博はトーンダウンする。

転機となったのは、1939年のニューヨーク万博だった。「明日の世界」をテーマに開催された同万博は、近未来社会のプレゼンテーションの場と化し、中でも人気を博したのが、GM(ゼネラルモーターズ)の「フューチュラマ」だった。それはライド型のアトラクションで、20年後のアメリカの都市の広大なジオラマを、空から遊覧するもの。のべ2,500万人(!)が訪れたという。

これ以降、万博はエンターテインメント色を強めていく。2度目となる1964年のニューヨーク博は、ケネディ政権がもたらした夢と希望にあふれる未来社会を提言し、ウォルト・ディズニーも4つのアトラクションを担当する。そのうちの1つが、ペプシコーラ館の「イッツ・ア・スモールワールド」だった。閉幕後、同アトラクションがアナハイムのディズニーランドに移設されたのは有名な話である。

そして――我らが1970年の大阪万博がやってくる。
少々前置きが長くなったが、僕は2025年の大阪万博を面白くするヒントは、この1970年の大阪万博にあると思う。同万博で住友童話館と電力館をプロデュースした小谷正一(彼は井上靖が芥川賞を受賞した「闘牛」の主人公のモデルであり、プロ野球のパ・リーグを創設した人物でもある)は当時、作家の梶山季之から「日本では、アイデアは金にならない」と水を向けられると、こう返したという。「万博は知恵を有料化するのに良い時期や」――事実、大阪万博は日本中からアイデア(才能)が結集し、大いなる金を生んだ。この辺りの経緯は、ホイチョイ・プロダクションズの馬場康夫監督の著書『「エンタメ」の夜明け』(講談社)に詳しい。興味のある方は、そちらもぜひ。

まず、万博を統括するプロデューサーは「世界のタンゲ」こと丹下健三だった。彼の設計した最新鋭の“大屋根”と、芸術家・岡本太郎がデザインした太陽の塔はバッティングするが、結果的に大屋根を突き破ってそびえる塔という前代未聞のコラボレーションを生む。ちなみに、太陽の塔の内部の展示を考えたのが、当時39歳のSF作家・小松左京である。

パビリオンの建設で辣腕を振るったのは、磯崎新や黒川紀章、菊竹清訓ら30代から40そこそこの若き建築家たちだった。万博で才能を認められた彼らは、やがて世界へ活躍の舞台を広げる。繊維館のデザインを任された弱冠33歳の横尾忠則は、パビリオンを建設途中のまま放置するアイデアで一躍名を馳せた。

パビリオンのソフトも才能の宝庫だった。東宝の大プロデューサーでゴジラの生みの親の田中友幸は三菱未来館の企画を任され、円谷英二監督と迫力ある360度の映像を作り上げる。同館は、アメリカ館・ソ連館と並ぶ万博屈指の人気パビリオンとなった。

先に記した住友童話館をプロデュースした小谷正一は、市川崑監督をトップに、アニメーションは和田誠、脚本は谷川俊太郎、主題歌の作詞は井上ひさしを起用し、映像と人形劇を融合させたショウを作り上げた。プランナーは後に東京ディズニーランドの開園をプロデュースする若き電通の堀貞一郎である。

フジパンロボット館をプロデュースしたのは、当時41歳の手塚治虫だった。そして、メインステージのポピュラー部門のプロデュースを任されたのは、こちらも41歳の渡辺プロダクションの渡辺美佐である。彼女の奔走で、サミー・デイビスJr.に始まり、アンディ・ウィリアムス、ジルベール・ベコー、メリー・ホプキン、フィフス・ディメンション、マレーネ・ディートリッヒら海外の大物アーティストたちが続々と来日する。

――さて、彼らを見て何か気づきません?
そう、意外なほど若い人たちが多いんですね。実際、名誉職である重鎮たちを除いて、当時万博の中枢で働いていたのは30代から40代前半の者たちがほとんど。万博誘致の仕掛け人である通産省の池口小太郎(後の作家・堺屋太一)自身、34歳の若手官僚だった。大阪万博の最大の功績は、クリエイティブの世界の世代交代を推し進め、その後の70年代から80年代にかけて世界で活躍する日本の人材を発掘したとも――。

今の日本を覆う最大の問題は閉塞感である。「万博なんて時代おくれ」なんて言わず、ここは一つ、若き才能たちに賭けてみません? ちなみに、2025年の大阪万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」――やはり、未来のことは、未来ある人たちに任せるのが一番だと思う。

1969年、大阪万博の前年にアメリカで開催されたウッドストック・フェスティバルは、音楽史上初の大規模な野外イベントであり、今日のフェスの元祖と言われる。今、ウッドストックを古いと言う者はいない。ならば、万博も同じじゃないだろうか。そう――大事なのは、中身のアップデートを続けることであり、未来を若い世代に託すことなのだ。

  • 草場滋(くさば・しげる)

    メディアプランナー。「指南役」代表。1998年「フジテレビ・バラエティプランナー大賞」グランプリ。現在、日経エンタテインメント!に「テレビ証券」、日経MJに「CM裏表」ほか連載多数。ホイチョイ・プロダクションズのブレーンも務める。代表作に、テレビ番組「逃走中」(フジテレビ)の企画原案、映画「バブルへGO!」(馬場康夫監督)の原作協力など。主な著書に、『テレビは余命7年』(大和書房)、『「朝ドラ」一人勝ちの法則』(光文社)、『情報は集めるな!」(マガジンハウス)、『「考え方」の考え方』(大和書房)、『キミがこの本を買ったワケ』(扶桑社)、『タイムウォーカー~時間旅行代理店』(ダイヤモンド社)、『幻の1940年計画』(アスペクト)、『買う5秒前』(宣伝会議)、『絶滅企業に学べ!』(大和書房)などがある

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