戦争から復興したクロアチアの街から見える「ウクライナの未来」
4年間続いたクロアチアの独立戦争からの復興
戦禍の中、ドブロブニク市民が古文書を収集し、街を撮影
「アドリア海の真珠」と呼ばれるクロアチアを代表する観光地ドブロブニク。赤瓦に彩られた中世の城壁都市はユネスコの世界遺産にも登録されている。
ここが戦禍に遭い、一度は瓦礫と化した街とは思えない。
1991年から1995年のクロアチア独立戦争の4年間、クロアチアは独立に反対するユーゴスラヴィアを構成したセルビアやモンテネグロの国々から攻撃を受けた。
「これらの国がクロアチアに侵攻したのは、名目上はユーゴスラヴィアの統一を維持するためであり、またクロアチアに居住していたセルビア人を保護する目的がありました。
特にドブロブニクへの攻撃は、セルビアやモンテネグロが、いかに強力な軍隊を持っているか、国際的にアピールする手段になったとも言われています」
こう話すのは、在クロアチア日本国大使館専門調査員を経験した門間卓也氏。
「ドブロブニクは、前に海、後ろに山があるのですが、山の上からロケットランチャーで旧市街に弾丸を打ち込んで街を破壊していきました。ドブロブニクは、日本でいえば京都のような街。美しい、素晴らしい街を破壊することでクロアチア人の心をくじく作戦でもあったと考えられています」(門間卓也氏 以下同)
壊滅状態になったドブロブニク。けれど、そうなったのは初めてではなかった。1667年の大地震や、1806年にナポレオンの艦隊の3000発の砲撃で破壊されるたびに、年代や様式に沿って忠実に修復してきたのだという。それを可能にしたのは、建物から路地に至るまで古い資料や地図が残っていたから。
「貴重な建造物が破壊されていることを知ったユネスコは代表団を送って、街の記録をとっていきました。古文書を収集し、写真を撮り、被害を受ける前と後ではどのように変わっていったのか、ドブロブニクの市民とともに記録に残したのです」
こうしたことによって、ドブロブニクは戦争前の姿を取り戻すことができたのだという。
戦後3年で廃墟からよみがえった「ドブロブニク」
破壊により、一時は危機遺産リストに挙げられたドブロブニクだが、戦後わずか3年で再建され、危機遺産リストから除外された。こんな奇跡的なこと、何が可能にしたのだろう。
「ドブロブニクが復興するためには資金が必要でした。その資金をどこから調達したかというと、まず一つがユネスコ。
ユネスコはドブロブニク復興のために20万ドルを拠出しました。ほかにチャリティー団体も設立されて、世界中から寄付が集まりました。その中でも有名なのは、アメリカの『リビルド・ドブロブニク・ファンド(RDF)』と『グランド・サークル・ファウンデーション(GCF)』です。RDFは1992年に設立されて、ドブロブニクの再建が終わった時点で解散し、GCFは今でも活動を続けています。
興味深いのはRDFがアメリカの観光業界主導で作られたことです。ドブロブニクは世界的な観光地。ここが復活することは、アメリカの観光業にとってもメリットがありますし、観光業を復活させることで経済的にも復活していくと考えたのです」
短期間での復興はうれしいことだが、困ったこともあった。ドブロブニクの街の再建には大量の赤瓦が必要だったが、クロアチアだけで作ることはできなかった。そこで、フランス政府の寄付によりトゥールーズの工場で生産された屋根瓦が輸送されたのだが、もともとの屋根の色は黄色がかった赤なのに対して、トゥールーズで作られたのは黄色みのない赤。赤い屋根と、黄色がかった屋根が混在して、再建したものと、もともとのものがはっきりわかるようになってしまったのだ。
EU加盟がウクライナ復興のカギ
完璧とはいかなくても、ドブロブニクは3年で復活した。では、ほかの街はどうだろう。灰燼に帰した地区も多いと聞くが、
「まだまだ復興途上です」
終戦から26年も経ったのに?
「日本もODAを通じて復興支援をしましたし、クロアチアはEUに加盟していたので、EUからも資金援助があったのですが、まだ瓦礫のままというところも多くあります」
ドブロブニクが3年で復興したから、ほかの地域ももう元通りになっていると思ったが、どうやら現実は厳しいようだ。
「ドブロブニクが早く復興できたのは、観光地だったからだと思います。ヨーロッパからも近く、少し車を走らせてクロアチアにやってきて、外貨を落として帰っていく。クロアチアの中でも恵まれた地域だと思います」
事実、クロアチアの人々の間でも、「なぜドブロブニクだけ」という不満の声が聞こえたという。
美しい街並みだったウクライナが、攻撃を受けて瓦礫の山になってしまった映像を見ると心が痛む。ウクライナはどうなるのだろう。
「EUへの加盟を早めようという動きがあるようですけど、加盟が認められれば資金も調達できる。そうでなければ、かなり厳しいことになると思います」
そんな状況でも門間氏が希望を見出すのは文化の力。
「東欧諸国は、さまざまな国に侵略されたり、苦しいこともあったけれど、混ざり合うことで多様性が生まれる。また、文化的なものを育てなければ自分たちのアイデンティティが示せないということがあるせいか、すぐれた芸術を生み出している国も少なくありません。
僕がクロアチアに興味を持ったのも、まさに東欧の国々の映画を見て、素晴らしいと思い、そうした文化を生み出す国を研究したいと思ったからです。
ウクライナにもキエフ・バレエ団という素晴らしい芸術がある。こうした文化を大事にしていくことが、復活のきっかけになるのではと思います」
東欧研究を続けている門間氏の心残りといえば、
「コソボ紛争においてNATOはセルビアの攻撃を停止させる目的で大規模な空爆を行いました。これはロシアからすれば、コソボのアルバニア人を保護するための軍事作戦が認められるなら、今回の侵攻もウクライナのロシア系住民を保護する目的があるから正当化される、と強弁するためのよい材料になっています。
だからこそロシアによる軍事侵攻を批判するためには、NATOによる空爆の何が問題だったのか、きちんと説明する必要があります。そのことに注意を向けてこなかった自分の研究にはまだまだ足りないところがあったと反省しています」
ロシアがウクライナに侵攻した理由については、いろいろ言われている。どんな理由があるにせよ、1日も早く解決することを祈りたい。そして、時間がかかってもウクライナの街が元のようになりますように。
門間卓也 独立行政法人日本学術振興会 特別研究員PD、関西学院大学 受託研究員、学習院女子大学 客員研究員。専門は「ユーゴスラヴィア/クロアチアにおけるナショナリズム・民族問題」。2010~2011年、ザグレブ大学哲学科に留学。2012~2014年、在クロアチア日本国大使館専門調査員を務める。
- 取材・文:中川いづみ
- 写真:アフロ
ライター
東京都生まれ。フリーライターとして講談社、小学館、PHP研究所などの雑誌や書籍を手がける。携わった書籍は『近藤典子の片づく』寸法図鑑』(講談社)、『片付けが生んだ奇跡』(小学館)、『車いすのダンサー』(PHP研究所)など。