野村克也「知将」と呼ばれた名監督の意外な芸能交遊録
<社会人野球シダックス監督時代の野村克也氏の「知られざる3年間」を描いた『砂まみれの名将 野村克也の1140日』(新潮社)が、発売1か月で4刷と人気を集めている。著者でスポーツ報知の野村番だった加藤弘士氏が見た、名将の意外すぎる「もう一つの顔」とは。(文中敬称略)>

「なんで俺なの?」
「にょぉぉぉぼよぉぉ~」
渋い歌声が響き渡ると、オールスタンディングの大観衆で埋め尽くされたフロアから、地鳴りのような大歓声が沸き上がった。
2014年4月3日。野村克也は秋葉原にあるライブ会場のステージに立っていた。最強の地下アイドルを標榜する「仮面女子」のイベントにゲスト出演したのだ。
アイドル21人の平均年齢は20歳。彼女らの「ノムさんコール」に迎えられ、78歳は舞台に登場した。
「なんで俺なの?」
開口一番の生ボヤキに誰もが笑顔になる。メンバーに促され、沙知代夫人作詞のオリジナル曲「女房よ…」を披露する運びになった。
「俺は何も聞いていないよ!」
照れながらの熱唱。観客は手拍子で応えた。
地下アイドルと知将との意外すぎるコラボ。4年以上に及んだ番記者としての取材でも、ひときわ印象に残る現場の情景である。
* * *
強打で三冠王にも輝いた「生涯一捕手」。日本一に3度輝いた球界屈指の名将――。
野村には様々な「顔」があったが、エンターティナーとしての才能もまた、卓越したものがあった。球界の権威でありながら、バラエティー番組にも出演し、特に晩節の「ノムさん」はテレビの人気者であり続けた。
一流は一流を知る。
私が目撃してきた、芸能界の「大将」こと萩本欽一との友情秘話を書き記してみたい。
「これはギャグじゃない」
2005年、野村はシダックスのGM兼監督として3年目のシーズンを迎えていた。「社会人野球の広告塔になる」。そう意気込んで過去2年、アマ野球の魅力を情報発信してきた。この年の初め、アマ球界には大きな「地殻変動」があった。萩本が自ら監督に就任し、社会人野球のクラブチームを設立したのだ。
萩本は意気揚々とメディアに語った。
「これはギャグじゃない。本気なのよ。シダックスの野村さんと都市対抗の決勝で当たりたいと思っているの」
「野村さんの『ID野球』に対抗して『ド~ンといってみよう』の『DI野球』というのはどうかなあ」
萩本は常に「野村さん」という言葉を口にした。プロでなくても、社会人でもやり方によっては世間にインパクトを残せる。それは過去2年の野村シダックスが実証済みだった。
一方で企業チームからは冷ややかな声も聞かれた。芸能人にいったい何ができる。俺たちは都市対抗出場を目指して、命がけで日々鍛錬に取り組んでいるのだ--。
長い時間をかけて確立した自らの「生態系」を乱される危機感が、そこには垣間見られた。
野村は果たしてどのように反応するのか。
「ぜひやりましょう」
私は欽ちゃん球団設立の一報から一夜明け、野村が練習を指導する調布市内のグラウンドを訪れた。話題を振ると、知将は笑顔で語った。
「練習試合、ぜひやりましょう。欽ちゃんが率いるクラブチーム、大歓迎だ」
「野球は結果論。作戦は臨機応変だし、決まりはない。勢いがついてしまえば勝負は分からないよ」
芸能人の「新規参入」を一喝するどころか、温かいエールを送った。この遊び心もまた、野村の持つ特色だった。
* * *
野球ファンに語り継がれるエピソードがある。70年代前半、水島新司が女性のプロ野球選手を主人公とした作品を構想し、知り合いのプロ選手に打ち明けたところ、その反応はことごとく否定的で、嘲笑されるだけだった。しかしただ一人、野村だけが「その投手にしかないボールがあれば、ワンポイントとしてなら通用するかもしれない」と答えた。
これをヒントに、決め球「ドリームボール」を操る女性初のプロ野球選手、左の下手投げ・水原勇気を主人公とした漫画「野球狂の詩」が描かれ、人気を博した。1977年に同作品が実写版で映画化された際、野村は南海の監督兼選手として実名で出演している。
野球の可能性を語る際の野村は、意外なほど柔軟な思考法の持ち主でもあった。
参入から間もなく、萩本は野村を表敬訪問した。調布のグラウンド。寒空の下、たき火に当たりながら野球談義に花を咲かせた。
野村は萩本を激励した。
「強くなってほしいね。中心になって盛り上げてほしい」
名将に背中を押された「茨城ゴールデンゴールズ」は「夢列車」と呼ばれ、球界を席巻した。萩本は試合前にマイクパフォーマンスで観客を沸かせ、試合後のサイン会では最後の一人まで延々とペンを走らせた。それまでのアマ球界になかった「お客さんを喜ばせる」という概念を持ち込み、浸透させた。前年の球界再編騒動の余波もあり、「ファンあっての野球」という側面が見直された時期だった。
萩本は2007年から全日本クラブ野球選手権で2連覇を成し遂げると、10年限りで監督を勇退。チームは後任監督・片岡安祐美のもと、今もなおクラブチームの強豪として活動している。
萩本の声が聞きたくなった。今、胸中に抱いている野村への思いを。
「野村さんとは元々そんなに会っていたわけではないんですよ。20年ぐらい前にTBSで特番(『欽ちゃんのプロ野球好珍プレーどこまで見せるの!?』)をやっていた頃、プロデューサーが野村さんに出演依頼をすると『誰がやってんだ?』と最初は嫌な顔をされるんだけど、『欽ちゃんか? じゃあ行かねえわけにはいかねえだろう』って。こういう粋なセリフを言う方なんですよ」
「スタジオでも『忙しいのにありがとうございます』とお礼を言ったら『忙しくなんかねえよ!』って。何気ない優しさがずっと変わらないの」
萩本へのインタビューは所属事務所とZoomでつないだ形で行われた。「視聴率100%男」のスター性は健在だった。パソコンの画面から今にも飛び出るような勢いで、野村への強い気持ちを明かしてくれた。
「球団を始めた頃は、正直どこに向いて進んだらいいか分からなかったんだ。そんな時に野村さんが『大歓迎だ』と言ってくれたでしょ。あの言葉を聞いて、なんて優しい人なんだろうと思ったよね」
調布の練習場で一緒にたき火に当たったことも、鮮明に覚えているという。
「『絶対にやった方がいいよ』って言ってくれたんだけど、『でもね欽ちゃん、野球はお金がかかるんだよ。都市対抗に勝つと、1試合で何千万もかかるから、用意してから行けよ』ってうれしそうに言ってくれて。そういう優しさがあったんですよ。会う時はいつも深い優しさをポッと置いていく人。ポッと置いて、スッと去って行くんだね」
萩本の参入時、野村や当時のソフトバンク監督だった王貞治らが続々とバックアップを表明したことで、茨城ゴールデンゴールズは軌道に乗った。観衆を集めて各地のクラブチームと有料試合を行い、スポンサーを募り、グッズを売って運営費に充てた。足りない場合は萩本の私財から「持ち出し」にした。
「野球でお金をもらったら失礼だと思って、ボクは一銭ももらわなかったよ。でも野球ってすげえなあと思いながら、当時はやってた。だってお笑いは、どんなに広い会場でも1000人が限界じゃない。でも野球は1万人、2万人……5万人が集まるんだもんな。あの頃は『仮装大賞』に出ても、子どもがボクのことを『野球のおじちゃん』って言うんだよ。野球は偉大だなあって、野球に感謝したよね」
インタビューの結び、万感の思いで言った。
「野村さんが応援してくれたからさ。ボクが想像もしないようなことが、どんどん進んでいくんだもん。だから野球ができただけで、本当に楽しかったんだ。野村さんはものすごいエンターティナー。言葉を大事にしているし、お客さんが見ている中での自分の位置や動きを、いつも考えていらっしゃった。試合後のボヤキもそうだけど、みんなを楽しませるのが大好きな人だったと思いますね」
* * *
野村の功績は戦術面や経営者的な視点で、球界の愛弟子たちによって語られ続けるだろう。
番記者だった私はそれに加えて、自由な発想で物事を捉える、やわらか頭の人情家であった側面も、多くの人に知って欲しいと願う。

冒頭の「仮面女子」イベント。メンバーの一人は、かつて「野村再生工場」と呼ばれた男に、こんな問いかけをした。
「私たちはオンボロ地下アイドルなんですけど、再生できますか?」
野村は語気を強めて言った。
「夢をずっと持ち続ければ…なれますよ!」
ヒートアップする場内。気づいたら、「完全アウェイ」であるはずのアイドルイベントの場を、野村は見事なまでに制圧していた。
奇しくも月見草の花言葉は「自由な心」であった。
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文:加藤弘士写真:加藤弘士