ウクライナ人日本語教師が語った「私が戦争に巻き込まれるまで」 | FRIDAYデジタル

ウクライナ人日本語教師が語った「私が戦争に巻き込まれるまで」

ノンフィクションライター・水谷竹秀の「ウクライナ戦争」現地ルポ

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キーウ在住の日本語教師、リュボフ・ソロキナさん(28)。自宅近くのビルは爆風の影響で窓ガラスが割れ、ベニヤ板などで補修されていた

12階建てビルの最上階は、コンクリートが破れたように破壊されていた。各階の窓ガラスはビニールで覆われ、地面には瓦礫が積み上がっている。

「ロシアのミサイルをウクライナが砲撃して、その時の破片と爆風であんなふうになってしまったと聞いています」

日本語教師のウクライナ人女性、リュボフ・ソロキナさん(28)は、ビルの一角を指差しながら興奮気味に語った。ロシア軍の全面侵攻から2ヵ月が経過した今、当時より少しは片付いているが、戦火の跡はまだ残っていた。

「すごい音と揺れでした。私、日本に住んでいた時、名古屋で地震を経験しましたが、もっと強い揺れでした。怖かったです」

ビルの近くには、ひしゃげて原型をとどめていない車が2台、ひっくり返っている車が1台、それぞれ放置されていた。

ロシア軍のミサイル攻撃を受けたキーウ市内のビル。リュボフさんはすぐ近くのアパートに住んでいる
ビル近くに停まっていた原型をとどめていない車。ロシア軍によるミサイル攻撃の激しさを物語っている

リュボフさんが住む首都キーウの住宅地にミサイルの破片が直撃したのは、3月17日午前4時ごろ。場所は大統領府から西に約5キロ、車で10分のキーウ動物園の側。近くのアパートに住むリュボフさんはその時、避難生活のためにトイレで母親と一緒に寝ていた。

「すかさず母の上に覆いかぶさりました。死を覚悟しましたね。それでもパニックにならないよう、目をつぶっていました。でもお母さんは大丈夫そうでした。家族の中で一番精神的に強いかも」

日本語教師として働いていたリュボフさんは昨年11月、キーウにある勤務先の語学学校を退職。その後は、自宅で日本語教材の作成や、日本語教育の研究に打ち込んでいた。異変を察知したのは今年2月に入ってからだ。母親はロシア生まれであることから、自宅ではロシアの民放を視聴できるように設定している。その番組の内容が突然変わり、やたらとウクライナに関するニュースが増えた。

「ロシア語で話をしている子供がウクライナ人のナショナリストに撃たれて亡くなったとか。しかも子供の人形を血まみれにした映像なんです。さらにロシアがウクライナに侵攻したのは、ウクライナでロシア語話者を守るためだった、というメッセージもニュースで流されました。何かがおかしいと思いましたが、私の周りはまさか戦争が始まるとまでは思っていませんでした」

ロシアが全面侵攻する前日の同月23日深夜は、プーチン大統領の演説が2時間ほど続いた。リュボフさんは両親と3人でテレビの前に釘付けになった。

「『私たちは世界を守らなきゃいけない』、『私たちがウクライナに侵攻しないと、この世界は終わってしまう』。そんなことを演説で伝えていて、腹が立ったのを覚えています。胃の中が気持ち悪くなりました。第六感っていうんでしょうか、もう何かが起きると感じました」

その日は寝付けなかった。ベッドで横になっていると、翌24日午前5時ごろ、爆音を耳にした。しばらくしてパジャマから服に着替え、パスポートや重要書類、食料品などをスーツケースに詰め込んだ。家の中ではできるだけ、窓ガラスから離れた場所にいるようにした。

「私はウクライナ生まれだからまだ大丈夫でしたけど、お母さんはロシア生まれだから、戦争が始まったことを信じられず、相当ショックを受けていました。21世紀でどうしてこんなことが起きるのかと」

キーウの街には警報が鳴り響いた。

リュボフさんは両親と犬2匹を連れ、アパートの駐車場へ移動し、車の中に入った。犬もいたため、国外への避難は考えず、その日からは基本、車中で生活した。1日1回だけ、11階の部屋へ行き、シャワーを浴び、作った料理を持って車に戻った。ニュースはラジオで聞いた。だが、車の中ではうまく寝付けない。一度だけ、駐車場の床にマットレスを敷いて横になったが、

「めっちゃ寒いから10分しか寝られなかった」

ネット環境も悪く、友人にも連絡が取れない。そんなストレスも重なり、10日目に意を決して一家で部屋へ戻った。以降は攻撃に備えてトイレが寝室になり、便器のそばに布団を敷いて母と犬2匹と一緒に寝た。父は廊下だった。

「家の窓から外を見ると、すぐ近くを戦闘機が飛んでいったこともありました。手が届くかと思うぐらいの距離だったから恐かったです」

リュボフさんは地域防衛隊に志願する。同隊はウクライナ国防省の傘下にある民間人で構成される組織で、不審者を取り締まるための警備などが任務だ。

「志願のことは両親には内緒にしていました。心配させますし、戦争が始まって以降、みんなストレスがたまっていましたから。志願したのは国の役に立ちたかったからです」

ネットから申し込むことができ、氏名や生年月日など必要事項を打ち込んで送信したが、返事がなかった。申し込みが多数あったのが理由らしい。病院への輸血も志願したが、薬を服用しているために認められなかった。それでもやはり、ウクライナのために何かをしたいという思いは固く、持っている洋服の大半を政府の支援機関に提供した。このほか1日に数時間、同じアパートに住む高齢男性の話し相手になった。

万が一のことがあれば、武器を持つ覚悟はあるのだろか。そう尋ねると、リュボフさんは「うん」と言って、2度頷いた。

「やっぱり国を守らなきゃ。私はウクライナ人だから、国のために何かをしなきゃっていう意識があります。でも私は弱いから最初に殺されるかも」

戦争が始まってから、あらためて気づいたこともある。道端で知らない人とすれ違うと、「大丈夫ですか?」「ご家族はお元気ですか?」と声を掛け合うようになった。

「小さなことで幸せを感じられるのが本物の幸せだと思うようになりました。友人に会うだけで幸せ、コーヒーを飲むだけで幸せ、新しい服を買うだけで幸せ。戦争前も頭では分かっていましたが、心では感じなかった。それが本当の幸せなんだって今は思います」

そんなリュボフさんはいつも、ウクライナのために何かをしたいと思い続けている。

リュボフさんは取材中、「国のために何かしたい」と繰り返した
  • 取材・写真・文水谷竹秀(ノンフィクションライター)

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