森田健作氏との再会で思い出す、デビュー映画『夕月』でのひと悶着
芸能リポーター・石川敏男の芸能界”あの出来事のウラ側は……”
《芸能リポーター・石川敏男の芸能界“あの出来事のウラ側は……”》
元参議院議員、元千葉県知事というよりも俳優・森田健作さんから、彼がパーソナリティを務めるラジオの出演依頼が来た。FM「NACK5」の『森田健作 青春もぎたて朝一番』と言う番組だ。
森田さんとは、デビューした時からの付き合いだから、喜んで出演させてもらうことになった。
議員になった時は距離が生まれたが、オレが住む千葉県知事の頃は、女優で森田さんとも共演が多かった早瀬久美さんからのお誘いで何回かあったことはあった。それにしても、久しぶりの再会だった。
黛ジュンさんが歌い大ヒットした『夕月』を松竹で映画化。その相手役に選ばれたのが森田さんだった。
‘69年の話だから、もう53年も昔の話だ。
当時、松竹には岩下志麻さん、桑野みゆきさん、倍賞千恵子さん、岡田茉莉子さんらが所属し、女優王国と言われた中で、男性俳優を作ろうということで生まれた企画。オレは松竹宣伝部でアルバイトをしていて、その『夕月』の宣伝助手と言う形でかかわることになる。
最終審査の日、思わぬ出来事が生まれた。50年前だから時効(?)ということで許して頂けると思って書くが、森田さんの所属事務所サンミュージック、松竹制作部と宣伝部、監督も黛さんの相手役は、すでに森田さんに決まっていたのだ。
ところがオーディション最終審査のときに、主演を務める黛さんが
「森田君じゃ嫌だ」
と言い出したのだ。そのオーディションには松方弘樹さんの弟・目黒祐樹さんも参加していて、目黒さんも最終審査に残っていた。黛さんは
「目黒さんと共演したい」
と言い出したのだ。
もちろん、当事者の森田さんはそんな話は全く知らなかったと思う。関係者がウラで勝手に決めていたからだ。
困り果てた関係者は、黛さんの説得にかかる。そして出した結論は『夕月』は森田さん。次回作を黛さん森田さん目黒さんで作るということが約束されたと聞いた。
「私が大学を落ちて予備校に通っている時に知り合った人が芸能界に進む道をつけてくれたんですが、全く分からないうちに芸能人になっていた。当時、何もわからない私に、いろいろアドバイスをしてくれて助けてくれたのは石川ちゃん。ホントに助かりました」
とは森田さん。オレも、芸能界のことは全く分からずに仕事をしていた頃だったな。
特別に映画が好きだったわけじゃないけど、仕事と言うことでは夢中だった。だから男性俳優を育てたいという松竹とプロダクションの意見が一致し、森田さんが誕生するときに参加できたのは本当に幸せで、何かにつけて頑張ったのは事実だ。
松竹も森田さんをスターにすべく努力を続ける。まず手始めに後援会の設置だ。
松竹にはスターと言われる人たちがいたが、後援会と言う発想はなかった。森田さんの所属したサンミュージックの相沢秀禎社長は、歌手・西郷輝彦さんをスターにした人で、ファンとスターのつながりは「後援会の設置が大切」との持論を持っていた。
そこで、当時、新宿にあった東京厚生年金会館の裏にあったサンミュージックの事務所にオレも通った。ファンクラブの立ち上げに、会報作りや宛て名書き。松竹本社に行くよりもサンミュージックの事務所に行く方が多い生活だ。
徐々に会員も増え、デビューの年に森田さんは6作品に出演している。青春物から喜劇まで、幅広く活躍された。
その後『砂の器』に刑事役で出演。松竹も森田さんを売り出す努力を重ねていたことは事実だ。
‘71年には連続ドラマ『俺は男だ!』(日本テレビ系)が始まり、放送は2年間。主題歌『さらば涙と言おう』も大ヒットし、スター街道を走りだした。あの頃は
「健ちゃん」
「石川ちゃん」
と呼び合った二人だったが、気が付けば森田さん72歳。オレは75歳になっている。それにしても“青春の巨匠”と言われた森田さんが、政治家になるとは思わなかったな…。
文:石川敏男(芸能レポーター)
‘46年生まれ、東京都出身。松竹宣伝部→女性誌記者→芸能レポーターという異色の経歴の持ち主。『ザ・ワイド』『情報ライブ ミヤネ屋』(ともに日本テレビ系)などで活躍後、現在は『めんたいワイド』(福岡放送)、『す・またん』(読売テレビ)、レインボータウンFMにレギュラー出演中