作詞家・前田たかひろが語る「小室哲哉さんに教わった作詞の極意」
小室哲哉氏との秘話、歌詞にこめた想い

「もし仮に、僕が作った歌詞を聞いて誰かが自殺してしまったとして、そのことで遺族の方から『どうしてくれるんだ?』というクレームが入ったとしても、『亡くなった方には申し訳ないけれど、あの詞はあれで良かったんです』と言える歌詞しか書かないと決めてます。
僕は、何があっても自分で責任の取れる詞しか書かない。自分が後悔する詞は絶対に書かないと、そういうつもりで作詞をしているんです」
いわゆる「クリエイター」の仕事をしたことがある人なら分かると思うが、こんな言葉はなかなか普通言えるものではない。それくらい、作詞家・前田たかひろさんは正義漢だ。
音楽の世界とは全く関係のない映像の仕事をしている私も、ちょっとしたご縁でもうかれこれ10年近く前田さんとお付き合いさせていただいているが、「アニキ」と呼ばせていただいている。
前田さんが作詞した、ももいろクローバーZの『DNA狂詩曲(ラプソディ)』の歌詞にあまりにも感動して、自分がプロデュースする番組の主題歌に使わせていただいたこともある。その歌詞の内容から、前田さんの作詞した曲は「笑わないももクロ」と言われ、「モノノフ」と呼ばれるももクロの熱烈なファンの間では、熱い支持を集め続けている。
小室哲哉氏と共同作詞し、第38回日本レコード大賞を受賞した安室奈美恵『Don’t wanna cry』や、同じく小室氏と共同作詞した安室奈美恵『Chase the Chance』をはじめ、輝かしいヒット曲の数々を生み出したアニキの音楽作家としての歩みは、『Chase the Chance』の歌詞にもあるように、驚くほど「信じてる道をまっすぐに生き」てきたものだった。
そして今、後輩の音楽作家たちのためにも、ある活動をまっすぐに進めようとしている。

「来生えつこさんに、『30歳まで我慢できますか?』と」
そんなアニキの音楽作家人生の始まりは、高校3年生のころ。きっかけは、たまたま見た電話帳。いまならちょっと「ストーカーなの?」と言われてしまうのではないかと思うくらいの話だ。
「電話帳を見ていたら、たまたまそこに『来生えつこ』という名前を見つけたんです。ちょうど『セーラー服と機関銃』が流行ったころで、あれ?ひょっとして、と思って電話したら、女性が出られました。
『あの、作詞家の来生えつこさんのお宅ですか?』と聞くと、『そうです』と。ご本人でした。
なので、『決して怪しいものではありません。埼玉の高校の3年生なのですが、作詞・作曲の仕事がしたいんです』と言ったら、『作詞の話でしたら』と言って30分くらい電話で話をしてくださったんです。いま考えると、どう考えても怪しいものからの電話なのにね(笑)」
たまたま電話帳で見つけた番号にかけたら、大好きな曲の作詞家と直接電話でお話ができた……普通の高校生なら、それだけでも満足してしまいそうなのに、前田少年はさらに図々しかった。自分が作った詞を見てもらえないかと、来生えつこさんに頼んだのである。
「えつこ先生が『じゃあここに送ってください』と、住所を教えてくれたので、『自分で持って行ってはダメですか?』と聞きました。
すると、『いいわよ』と言ってくれたので、詞だけ持って会いに行きました」
来生えつこさんに会いに行った前田少年は「作詞家になりたいんです」と想いをぶつけた。するとこんな答えが返ってきた。
「えつこ先生に『30歳まで我慢できますか?』と聞かれました。『作詞には人生経験が必要だから、30くらいまでは我慢が必要』だと。もちろん僕は元気よく『できます!』と答えました」
その後、たびたび自分が作った詞を持って、来生えつこさんの元を訪れては見てもらっていた前田さん。大学4年の時に意を決して「付き人にしてください」と頼んだという。
「困ったようにえつこ先生は『作詞家に付き人はいらないんだけど』と言いました。確かに作詞家に付き人なんかいらないよね(笑)そして『それなら』と、弟・来生たかお先生の運転手兼付き人にしてくれたんです」
「30歳まで我慢する」という、師である来生えつこさんとの約束を前田さんは結果的に守らなかった。
この時20代だったアニキにとって、10年はあまりに長すぎたのかもしれない。浪人して中央大学に進み、在学中に1年間、来生えつこさんの弟・来生たかお氏の運転手兼付き人を務めたものの、そのころ来生たかお氏のマネージャーから「やる?」と誘われたオロナミンCのCMソングのコンペに参加し、見事に採用されたのだ。
「あのころ僕は、CDが一枚出たらもう一人前に仕事ができるようになったと思ってました。早速たかお先生に『辞めさせてもらいます』と挨拶して、付き人を辞め、実家を出て一人暮らしも始めて、大学も中退してしまったんです。22歳の時でした」
しかし、すぐに現実の厳しさを思い知ることとなる。池袋に住み、深夜までバイトをして、なんとか生計を立てる日々。
そんなある日、バイト帰りに大塚駅で警察官に職務質問を受けた。午前3時。
職業を聞かれて「作詞屋です」と粋がって答えたものの信じてもらえない。仕方がないのでオロナミンCのCMソングをフルコーラス路上で歌った。
熱唱虚しく警察官は「知らん」と一言。ただ、「俺は巨人ファンだから許してやる」ということで、ようやく解放された。
「本当に甘い考えでした。28歳で結婚する前くらいまでは、作詞家として生計を立てることができませんでした。
来生えつこ先生にも、たかお先生にも、とても感謝しています。いまだに僕は『夢の途中』という言葉を自分の詞で使ったことがありません。『夢の途中』という歌詞だけは、決して書いてはいけないと思っています。(※『夢の途中』は作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお 歌手としての来生たかおの代表曲)」
しかし、アニキの「まっすぐすぎる猪突猛進作詞家人生」の勢いは弱まることはなかった。レコード会社と、事務所と、音楽出版社の違いすらよく分からなかった状況だったが、飛び込み営業を繰り返したという。
ある女性アイドルの詞をどうしても書きたい!ということで、作詞・作曲を手がけた自身のバンドのデモテープを毎週そのアイドル担当のディレクターに送り続け、毎週月曜日の11時に必ず「どうですか?」と確認の電話をかけた。しつこさに根負けしたのか、念願かなってそのアイドルのアルバム曲を一曲作詞できることになった。
悪い先輩に「印税で外車が買えるよ」とそそのかされた。たまたまそのころ、乗っていた車が寿命を迎えていたこともあって、さっそく車を買い替えた。すると、そのアルバムが諸事情でお蔵入りに。印税は1円も入ってこず、もらえたのは「お礼の焼肉一回」だけだった。
「さすがに外車は買わず、ローレルを買ったのですが、ローレルがローンレルになってしまいました(笑)売れないと大変だ!CDが出るまでは何も信頼できないぞ!とその時身に染みました」
そしてついに26歳の時、東京パフォーマンスドールの『十代に罪はない』で小室哲哉氏と一緒に仕事をする機会を得た。
作詞:前田たかひろ 作曲:小室哲哉。これがきっかけとなって、のちに小室哲哉プロデュース作品の作詞を多く手掛けることとなる。
小室哲哉氏からの依頼はいつも「本当に突然」だったという。
いきなり事務所に呼ばれて、2時間近く待たされたと思ったら、出てきた小室氏がいきなりメロディーを口ずさむ。そして、「30分でできる?」とおもむろに聞かれる。
慌ててワープロをセッティングしながら「1時間ください」と答える。「じゃあ1時間で」と言われて、必死で1時間以内に歌詞を書き上げる……そんな調子だ。夜中に突然呼ばれることもあったという。
「夜中にいきなり呼ばれたと思ったら、小室さんは涼しい顔をして『これから作るね』と言うんです。で、目の前でドラムを打ち込み始めて……それを聞かされて『できた?』と聞かれます。
『さすがにドラムだけでは無理です』と言うと『あ、そう』と言いながら今度はベースを入れて『できた?』とまた聞かれます。『まだです』『あ、そう』。で、今度はキーボードでコードを入れて『できた?』と。で、また『まだです』『あ、そう』。
それから今度はメロディを入れ始める……こっちも悔しいから、必死でそれを聞きながら考えて、『できた?』と聞かれたらすぐに『できました!』と答える。と、そんなこともありました」
安室奈美恵の『Chase the Chance』を依頼された時にも、事務所からいきなり「(小室さんが)前田さんと話がしたいと言ってます」という電話がかかってきた。「いま成田空港にいて、これからロスに行くので、あとで電話をくれ」と言われて、「国際電話代を取り返すぞ」と思いつつロスまで電話をしたそうだ。
結果、国際電話代どころではないあの大ヒットとなったわけだが、アニキにとっては小室氏から「とても大切なこと」を教わるまたとない貴重なチャンスにもなったのだという。
「実は『Chase the Chance』の『信じてる道は まっすぐに生きよう』という歌詞ははじめ『みんな行く道は はみ出しちゃえばいい』と書いていました。
すると小室さんが『前田くん、書きたいことはまっすぐ書いたほうがいい』というんです。
『安室の歌はこれから、本当にものすごくたくさんの人が聞くことになるんだ。その中には“はみ出す”っていうと、その言葉だけを悪く捉えちゃう人もいる』と。
まだその時は、安室奈美恵がちょうど注目を集め始めたころで、ミリオンも出ていない。でも、小室さんがそう言うので、『信じてる道は まっすぐに生きよう』という、ちょっと直球すぎて、作詞家として書くのが恥ずかしいような歌詞になったんです」
この時教わった「書きたいことは、まっすぐ書く」という姿勢。それがその後のアニキの「まっすぐな作詞家人生」を形作ったと言ったら言い過ぎだろうか。
そして、『Chase the Chance』の翌年、ついに『Don’t wanna cry』でレコード大賞を受賞することになるわけだが、アニキにとってはこの歌の作詞はむしろ「自由だった」という。
「『Chase the Chance』で事務所への義理は果たした、と思っていましたから、自由に、好き勝手に書きたいことを書かせてもらいました。
ちょうど娘が生まれたころで、フランスの核実験やいじめ問題などがあり、『この子が生きる未来は一体どうなってしまうんだろう』と思ったので、そのメッセージをそのまままっすぐに書きました。
ディレクターからは『殴り合いとか殺し合いとかそんな歌詞は絶対にダメだ』と言われましたけど、『小室さんに頼まれたのだから、小室さんが直せと言ったら直そう』と思いました」
その後もアニキの詞はいつも「まっすぐ」だった。松たか子の楽曲の依頼を受けた時には、『君じゃなくてもよかった』という歌を書いて、「これは松には歌わせられない」と事務所から反対されたこともあったという。
「あとで松たか子さんのお母さんが『あの歌が一番あの子に合ってると思う。大好きな歌よ』とおっしゃっているというのを聞いて、とても嬉しかったですね」
このように、とにかく「まっすぐ」作詞家人生を歩んできたアニキ。
「自分はとにかく、ありがたいくらい好きにやらせてもらった」という。
しかし、来生えつこさんに突然電話をした18歳から40年が経ったいま、まだ実は「やり残したこと」が2つあるようだ。
まず一つ目は何か。それは「自分自身の音楽作家としての活動」だ。アニキはこう話す。
「いつも僕の代表曲というと、安室奈美恵さんの曲の名前が挙がります。でも、僕にとっては実はあれは『ノーカウント』なんです。小室哲哉さんとの共作ですし、
『奇跡の安室と、奇跡の小室に乗っかっちゃっただけ』だといつも思っているんです。
ピンの名前でレコ大を取るまでは!という気持ちで日々頑張っているんです」
そして、もう一つは何か。それは「後輩の音楽作家たちのための活動」だ。
「音楽作家でいま食べていくのは、本当に大変です。かつてのようにCDが売れた時代と違って、いま音楽は無料で当たり前のように思われています。
でも、音楽作家たちはみんな著作権があって、そのお金をもらっているから食べていけています。みんな大変だけれど、頑張っています。そのことを分かってほしい。
そうしないと、これから音楽作家を目指す人がいなくなります。夢がなくなります」
アニキは音楽作家の有志を集めて「音楽作家はつらいよ」というプロジェクトを立ち上げた。
「とにかくまず、著作権というものが大切だと知ってほしい。そして、音楽作家は著作権で食べていけていると知ってほしい。さらに音楽作家たちにも、著作権というものを理解してもらって、自分たちで声を上げてほしい」
というのがアニキの願いだ。
そしてこんな現状にも、改善を求めたいという。
「現在、楽曲はコンペ方式で募集されることが多いのですが、1%が採用されて99%が落選するくらいの状況です。落選すれば1円も報酬は払われないのですが、だからといって作家は決して手を抜いたりはしません。
一生懸命曲を作ったり詞を書いたりして、人によっては世に出るのは1〜2割。多い人でも3割もあれば良いほうです。これでは音楽作家は疲弊してしまいます。
例えばせめて、1000円でも2000円でもいいから、コンペ料のようなものを考えてもらいたいなと思います」
「信じてる道は まっすぐに生きよう」を体現してきた、音楽作家・前田たかひろの人生。
アニキは後輩の音楽作家たちにもぜひ、信じてる道をまっすぐ生きてほしいと願っている。
そして音楽作家たちがまっすぐ創作活動に励めない世の中は、我々音楽を楽しむ人々全員にとっても決して良い時代にはならないであろうということを、だからこそ「著作権は大切だ」ということを、ぜひこの文章を読んでくれた皆さんにも分かってもらえたら嬉しい。
前田たかひろ:作詞家・プロデューサー。安室奈美恵の「Chase the Chance」「Don’t wanna cry」(’96日本レコード大賞 大賞受賞)、知念里奈の「precious・delicious」(’97日本レコード大賞 新人賞受賞)の他、松たか子・鈴木あみ・TRF・観月ありさ・甲斐バンド・織田裕二・吉川晃司・KinKi Kids・柴咲コウ・ももいろクローバーZ等、数多くのアーティストに詞を提供。近年は、音楽作家の著作権を守るプロジェクト「音楽作家はつらいよ」にも取り組んでいる。
■「音楽作家はつらいよ」公式HP https://ontsura.com
取材・文:鎮目博道/テレビプロデューサー・ライター
92年テレビ朝日入社。社会部記者として阪神大震災やオウム真理教関連の取材を手がけた後、スーパーJチャンネル、スーパーモーニング、報道ステーションなどのディレクターを経てプロデューサーに。中国・朝鮮半島取材やアメリカ同時多発テロなどを始め海外取材を多く手がける。また、ABEMAのサービス立ち上げに参画。「AbemaPrime」、「Wの悲喜劇」などの番組を企画・プロデュース。2019年8月に独立し、放送番組のみならず、多メディアで活動。江戸川大学非常勤講師。MXテレビ映像学院講師。公共コミュニケーション学会会員として地域メディアについて学び、顔ハメパネルをライフワークとして研究、記事を執筆している。近著に『アクセス、登録が劇的に増える!「動画制作」プロの仕掛け52』(日本実業出版社)
撮影:安部まゆみ