「小柄なスパイ」プーチンが最も残忍な独裁者になるまで | FRIDAYデジタル

「小柄なスパイ」プーチンが最も残忍な独裁者になるまで

プーチンウォッチャー・黒井文太郎が読み解く「プーチンの正体」(前編)

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<国際社会からの批判を受けながら、収束の見通しがまったく立たないロシアによるウクライナ侵攻。この蛮行の「芽」は、ロシア・プーチン大統領自身のなりたちによっている。この戦争を考えるときに、そいうった視点は欠かせないだろう。軍事ジャーナリストで、日本一のプーチンウォッチャー・黒井文太郎氏が、彼の「正体」を読み解く>

ただのスパイだったプーチンが、今世紀最悪の独裁者になった背景。プーチンウオッチャーが読み解く「成り上がり物語」 写真:代表撮影/ロイター/アフロ

プーチン重病説に、根拠はない

プーチン大統領に関して、根拠のあやふやな「噂」がいくつも飛び交っている。

例えば「重病説」だ。パーキンソン病説、ガン説などさまざまな説が報道されており、なかには「ガンで手術が決まっている」などという話まであるが、それらの情報の出所を辿ると、いずれも単なる未確認情報である。

さらには「ガン手術を控えて、パトルシェフ安全保障会議書記を代行に指名した」「いや、36の大統領府職員を後継者に指名した」などというもっともらしいニュースもあったが、それもエビデンスはまったくない。これらの情報の震源をみると、イギリスの各タブロイド紙、あるいはいくつかのメディアのロンドン支局、あるいはイギリス紙「ザ・タイムズ」の場合が多い。

そのネタ元をみると、ロシア語圏で人気のSNS「テレグラム」に投稿された怪しい記事が多く、ときおり「ウクライナ側の情報機関発」などもある。可能性はゼロではないが、現時点での情報の価値は低い。いずれせよ「ロンドン発情報」にはにわかに飛びつかず、一呼吸おいて他の国際メディアの反応を見るのが賢明だろう。

とはいえプ―チン大統領に関する情報は重要だ。今回のロシア軍のウクライナ侵略はプーチンが決め、プーチンの命令で実行された。プーチンこそがこの悲劇の元凶である。

となれば、プーチンがどう考えているかによって、今後のこの戦争の行方は大きく変わってくる。個人の頭の中は他人にはわからないが、推測は有益だ。そうした「プーチンの正体」を知るうえで、彼がどんな人生を歩んできたかを振り返ってみよう。

小柄な「一介のスパイ」が、政界に転じるまで

ウラジーミル・プーチンは1952年生まれで、2022年5月現在は69歳。出身はレニングラード(現・サンクトペテルブルク)である。少年時代からKGBに憧れていたとの逸話もあるが、後付けの可能性もあり、事実か否かはわからない。

学業成績は優秀で、名門レニングラード大学法学部を卒業し、KGBに幹部コースで入った。KGBでは防諜部門の第2総局を経て対外諜報活動を担当する第1総局に配属され、レニングラード支部を経て、1985年から東ドイツのドレスデン支部に勤務した。

プーチンはそこで1990年まで勤務していた。東ドイツ勤務は5年間で、年齢でいえば32歳から37歳。スパイとしては若手の終わりから中堅にかけてといった時期だろう。その帰国直前、37歳になる頃に、ライプチヒでのデモからベルリンの壁の崩壊に繋がる「時代の激変」を体験している。この体験はプーチンにとって大きなものだったと推測できるが、当時の彼がどう思っていたかは本人にしかわからない(※プーチンは独裁者に上り詰めた後、過去の自分を何度か語っているが、それらの“物語”の真実度は不明である)。

いずれにせよ故郷レニングラードに帰った後、プーチンはKGB予備役となり、母校レニングラード大学で働き、大学時代の恩師であったアナトリー・サプチャーク教授と関係を深める。サプチャークは当時、政界に転じてレニングラード市党議長になっており、プーチンは彼の補佐となって正式にKGBを離れた。

プーチンの「成り上がり」がはじまった

サプチャークはエリツィンに並ぶ改革派の旗手として注目を集めており、そのままサンクトペテルブルク市長となるが、プーチンは市長の腹心として市行政の中枢ポストを歴任。瞬く間に出世して1994年には、第1副市長に就任している。

その後、1996年に、後ろ盾であるサプチャークの市長退陣と同時にプーチンも辞職するが、すでにロシア官界である程度の評価を得ており、エリツィン政権に誘われてモスクワに行き、ロシア大統領府の要職に就任。翌1997年にはロシア大統領府副長官、1998年には大統領府第1副長官、さらにFSB長官に就任した。つまり一介の中堅の現場スパイから冷戦終結でKGBを退職した後、わずか8年で古巣にトップとして返り咲いたわけである。

FSB長官となったプーチンは、昔からの仲間を要職に就け、FSBを短期間で掌握した。その頃に深い関係を築いたのが、FSB生え抜き幹部のニコライ・パトルシェフだ。ほぼ同世代で同じレニングラード出身であり、後にFSB長官から政権の対外戦略の司令塔である安全保障会議書記となり、現在もプーチンを支え続けている。

そして、こうしてFSB長官の椅子を得たことが、プ―チンの、政治家としてのさらなる飛躍に繋がった。エリツィン大統領の汚職疑惑を捜査していたユーリー・スクラトフ検事総長がスキャンダルで失脚した事件でも、その失脚に手を貸している。

その後、1999年8月に首相代行、すぐに首相に指名された。当時、エリツィン大統領は重度のアルコール中毒で職務がおぼつかなくなっており、事実上、政府はプーチン首相が采配することになった。プーチンがモスクワに移ったのは43歳で、中央政界ではまったくの無名の男が、あっという間に46歳で「次期最高権力者」に上り詰めたのだ。

「無名の43歳」は、チェチェン攻撃で一気に

当時のプ―チンはロシア政界では無名の新参者だった。ところが、彼は首相に就任するとすぐにチェチェンへの攻撃を命令し、第2次チェチェン紛争を開始した。

こうしてプ―チンは“強い指導者”像を自己演出してロシア国民の人気を集め、1999年末には大統領代行に指名され、翌2000年に47歳で正式に大統領に就任した。その間、さらにFSBレニングラード支局時代からの仲間を政権要所に配置し、独裁への下地を素早く作っている。

こうしてみると、彼は生まれてから37歳まではソ連共産党・KGBの文化の中で育ち、ソ連崩壊後は改革派市長の補佐として働きながら、ロシアの経済と社会秩序の崩壊を体験した。エリツィン政権下のロシアは自由ではあったが、世界の最貧国のような悲惨な状況だった。その惨状を、プ―チンは37歳から権力層の一端で見聞し、46歳で権力を掴んだのだ。

この37歳から46歳までに体感した「大国ロシアの屈辱」が、権力者となったプーチンの政策に色濃く反映されている。

彼は同じ体験を持つKGBレニングラード支局時代の友人、あるいはサンクトペテルブルク副市長時代の部下などを重用し、彼の考える一種の「世直し」を始める。それはロシア人が君臨する強大な勢力圏を再建することだが、その過程で邪魔な外部の人間、あるいは自分たちに反発する国内の人間は躊躇なく「消す」。その手法はまさに、ソ連共産党・KGB式手法の復活だった。そしてその先に、今回のウクライナ侵略があったのである。

<ウラジーミル・プーチン、69歳。この戦争を始めたロシア大統領に、戦争をやめるつもりなどないだろう。後編につづく>

黒井文太郎:軍事ジャーナリスト。1963年生まれ。モスクワ、シリアなどで取材、プーチンの言動について長年にわたり分析を続けているプーチンウオッチャーとしても唯一無二。20年に渡るプーチン観察の集大成ともいえる著書『プーチンの正体』(宝島社新書)が5月27日に発売になった。

  • 取材・文黒井文太郎写真代表撮影/ロイター/アフロ

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