激戦地マリウポリ 瀕死の重傷夫妻の「壮絶生還記」 | FRIDAYデジタル

激戦地マリウポリ 瀕死の重傷夫妻の「壮絶生還記」

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平和な時代に旅行を楽しむタチアナさん夫妻(画像:タチアナさん提供)

ロシア軍の砲撃により全身に大ケガを負った、激戦地マリウポリに住んでいたタチアナさん夫妻。戦闘は激化の一途をたどり、病院の地下室から出られなくなった。地獄から、どうやって生還を果たしたのか。

【前編:瀕死の夫妻「奇跡の脱出記」】に続き実際にあった生還劇を、英語の女性教員タチアナさんの肉声で振り返りたい。

――どうやって病院の地下室から出たのですか。

「3月末になると、戦闘地域が遠くに移りました。私たちは、水や食料を探すために地上に出られるようになったんです。しかし街には遺体が転がり、墓地へ埋葬しに行くこともできません。人々は愛する家族や隣人を、アパートの庭に埋めるようになりました。

地下室への入り口付近で焚き火をして料理を作っていましたが、飛行機が飛んでくると、みんな地下に逃げ込みました。逃げ遅れた多くの人が、調理中に亡くなりました。病院周辺では家屋がほとんど焼失し倒壊しているため、爆発音や飛来物の音が実によく響いて聞こえてきました」

――水などは手に入ったのですか。

「(ロシアが占領したウクライナ東部)ドネツク人民共和国の兵士が病院に飲料水を持ってくるようになったのですが、数に限りがあります。半日並んでようやくもらえたり、もらえなかったりしていました」

夫妻を絶望の底に落とした言葉

――もっとも困ったことは?

「誰とも連絡が取れず、情報がまったくなかったことです。親戚や友人が生きているのか、この国で何が起こっているのか、わからなかったです。ドネツク人民共和国の戦闘員は、病院に入ってきた最初から『主要都市はすでにロシアが占領し、あとは少しだけ(非占領地域が)残っている』と私たちに教えていました。人々はウクライナがほぼ占領下にあるのだと絶望し、途方に暮れていました」

――どうやってウクライナ側に避難したのですか。

「私たちは人道回廊が開かれ、避難が呼びかけられるのを待ち望んでいました。しかしロシア軍とドネツク人民共和国の部隊は(北部)ザポリージャへの避難を許可せず、彼らの用意したバスで住民をドネツクか(ロシア西部)ロストフに送っていました。

そんな時、マリウポリから約20km離れた村を経由して、ザポリージャへ避難できるルートがあるという情報を得ました。車を持っている知人に頼み村まで連れて行ってもらいましたが、マリウポリから出る道は軍事作戦を口実に封鎖されていました。通ることができません。今度は違う道を探し、検問所にいた兵士を説得して通してもらうことができました。ギプスや血痕のついた包帯など、私たちの痛々しい外見が少しは役に立ったようです」

SNSにアップされたタチアナさんの住むアパートが炎上する様子

――そこからザポリージャに避難できたんですね。

「いいえ。検問の先で分かったのは、選別収容所を経由してドネツクとロストフに行くバスだけしかないことでした。しかし、私たちは選別収容所を通らずに裏ルートを行く『運び屋』がいるという情報を入手したのです。私たちには所持金がまだいくらかあったので、運び屋に支払うことにしました。

途中、検問がいくつかあり、所持品や携帯電話をチェックされました。ベルジャンスクという町に着くと、携帯電話がつながりました。家族や友人に電話をして、本当のニュースを知ることができて嬉しかったです」

――ようやく光が見えて来た。

「はい。でも、困難は終わりません。小型バスでベルジャンスクを出発しましたが、最初はロシア兵に通してもらえず引き返しました。翌日、もう一度出発すると、今度は15もの検問を通過してザポリージャに到着することができました。

検問でロシア兵は男性の乗客だけをバスから降ろしては、服を脱がせ、入れ墨がないかチェックし、持ち物や携帯電話を点検。若い男性がスマートフォンを持っていたのですが、彼らはそれを取り上げて地面に投げつけ、撃って壊してしまいました。ウクライナの最初の検問所に着いたとき、バスの中の全員が嬉し泣きしていました」

同じアパートの住人が何人も亡くなり……

――現在はどういう生活ですか?

「(西部)リヴィウの親戚の家に避難しています。夫はリヴィウでようやく(大ケガをした)アゴの手術を受けることができましたが、時間が経っていたため、すでに悪化していました。今も2人とも通院しています。身体に麻痺があり、現状では復職を考えられません。

私たちがマリウポリで暮らしていたアパートですが、病院にいた3月上旬に砲弾が直撃し全焼したそうです。同じアパートの住民が何人も亡くなり、庭に埋められました。私たちの車も燃えてしまいました。私たちのアパートが着弾して煙を上げる様子の画像がSNSにアップされているのを友人が後から見せてくれました。マリウポリでは携帯が通じないので、兄弟や甥、同僚らの安否がいまだに分からずとても心配しています」

――学校はどうなるのですか。

「私は、学校の最終学年である11年生の学年主任でした。生徒たちはこの夏に卒業するはずでした。ウクライナの他の地域の学校はオンライン授業をしていますが、マリウポリの学校はそれどころの状況ではありません。戦争開始後すぐに学校の授業はストップして、それっきりです。私の学年の生徒のうち1人だけが、家族とマリウポリに残っています。他の生徒たちはみんな安全地帯に避難しました。他の学年では死者や行方不明者が出ています。

マリウポリなど戦闘地域を逃れて避難生活を送る11年生は、他のヨーロッパの国にいても国家試験である卒業試験を受け、ウクライナの大学に進学することができます。ロシア側に避難した生徒はロシアを離れてヨーロッパに移動するかウクライナに帰国すれば受験することができる。6月は(ウクライナの)卒業シーズンですが今年は卒業式もできません」

――ロシアは、マリウポリで9つの学校が授業を再開したと発表しています。

「9月からロシアのカリキュラムで教えるために、市内に残った子どもたちは夏休み中も勉強させたいと考えているのです。マリウポリの学校はたくさんの問題を抱えています。照明がない。発電機があっても学校の設備そのものが壊れていたり、略奪されていたりして使用できない。上下水道がない。給食用の食べ物が不足している。ほとんどの教師が辞めてしまった……。

占領軍は、マリウポリに残された子どもたちが『ロシア世界』の精神で育つことを望んでいます。ウクライナ語やウクライナ文学、ウクライナ史の授業もありません。ロシアは何世紀にもわたってウクライナのものをすべて禁止し、文化を破壊してきましたが、歴史は今まさに繰り返されているのです」

  • 画像タチアナさん提供

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