“あの夏”から30年 「松井5敬遠」の明徳投手が貫く野球愛 | FRIDAYデジタル

“あの夏”から30年 「松井5敬遠」の明徳投手が貫く野球愛

帝京平成大を率いて東都3部へ

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躍進する帝京平成大野球部の監督として

帝京平成大野球部監督・河野和洋

「”あの夏”と、今回の東都参入と。どちらも、自分にとっては大きなターニングポイントだと思います」

帝京平成大の河野和洋監督は、そう言った。

東都大学野球リーグの3、4部入れ替え戦。12戦全勝と、圧倒的な力で4部を制した帝京平成大は、3部最下位の成蹊大に連勝して、秋の3部昇格を決めた。

とはいえ、帝京平成大がもともと加盟していたのは、千葉県大学野球リーグである。同リーグの中央学院大が昨年秋、明治神宮大会で初優勝しているように、レベルはなかなか高い。1990年春に加盟した帝京平成大(当時は帝京科学技術大)は、99年に3部から2部に昇格。最高成績は2位で、なかなか優勝できなかったが、2021年秋についに2部で初V。いよいよ1部昇格のチャンスと思われた。

だがなんと、1部との入れ替え戦を辞退する。2022年1月1日付けで、東都大学野球連盟への新加盟が決まっていたためだ。「最初からそのつもりでした」と河野が明かす。

「帝京平成大のコーチになったのが19年2月、監督就任が11月。学校側とは、最初から東都参入を目指すことで一致していました。自分も、東都の専修出身でしょう。日本の大学野球では野球の水準も知名度も、あるいは卒業後の進路も、やっぱり東京六大学か、東都が一番なんですよ。ここからが新たなスタートです。知名度が上がれば学校経営にもプラスですし、いい選手も来てくれます」

東都といえば、春に1部優勝したチームが、秋は最下位で2部に落ちることもありうるほど実力が伯仲しているリーグだ。1部、2部ともにどこが優勝してもおかしくなく、まさに戦国東都と呼ぶにふさわしい。その東都4部からスタートした帝京平成大は、次は3部から2部へ、そしてゆくゆくは、1部昇格を目指す。

「もちろん、簡単にはいきません。ですが、1部の試合を見る限り、そこまで絶望的な力の差はない。まずは2部昇格を目指します」

やがて1部昇格となれば、大学野球の監督としてまだ日の浅い河野にとって、確かに大きな転機になりそうだ。

「松井の打球が見えなかった」

 

ところで……河野和洋という名前に、聞き覚えはないだろうか。ヒントは冒頭、”あの夏”という河野の一言にある。

1992年、夏。甲子園は、一人の怪物の存在に沸き立っていた。ゴジラこと、星稜(石川)・松井秀喜である。その星稜と2回戦で当たったのが、明徳義塾(高知)だ。そう、松井を封じるために、5打席すべて四球を与えた明徳の投手が、河野なのである。いわゆる「松井5敬遠」だ。

河野には、何度もそのときの話を聞いた。たとえば……明徳ナインは、勝ったほうが相手となる1回戦の星稜と長岡向陵(新潟)の一戦をレフトスタンドから見た。するといきなり、

「こらアカン、と思いました。初回松井に打席が回り、カーンと音がしたと思ったら速すぎて打球が見えないんです。星稜が相手に決まり、先発を告げられたとき、馬淵(史郎監督)さんは、”松井はもう、相手にせえへんから”。敬遠しろ、と言ったわけじゃありません」

実際のマウンドでは、5打席20球すべてボール、すべてストレート。変化球がヘタに引っかかったら、ストライクゾーンに行きかねないからだ。最初のうちは、”おかしいな、ストライクが入らない”と首をかしげる演技もした。

「自分が145キロでも投げるピッチャーなら勝負したかったでしょうが、背番号8、本職のピッチャーじゃありません。歩かせることに対して、プライドも何もないですよ(笑)

結局、3対2で明徳が勝利。松井の注目度が高かっただけに、この試合は「高校野球らしくない」と社会問題化し、勝った明徳はすっかり悪者になった。宿舎には嫌がらせや抗議の電話が殺到し、馬淵監督ばかりか選手も宿舎から出るに出られず、練習の行き帰りはパトカーが付き添った。となると、高校生が平常心で野球ができるわけもなく、明徳は次戦で敗退した。

名将・馬淵監督の涙

「ただね……負けたあとのミーティングで、馬淵さんが号泣したんです。聞き取れたのは、”オマエらは悪うない、オマエらはよくやった”という言葉くらい。いくら批判されても、そういう人だから僕らは信頼してついていったんです。馬淵さんはあのとき、40歳前。自分がその年代になったとき、あらためてすごい人だと感じましたね」

専修大では黒田博樹らが同期。2部も含め野手として通算111安打、21本塁打を記録している。社会人のヤマハ時代の2年間では、都市対抗にも出場した。さらに、アメリカの独立リーグでも6年間プレー。帰国後は、クラブチームの千葉熱血MAKINGの選手兼監督として、2015年には全日本クラブ選手権のベスト4まで進出している。当時39歳だったが、バリバリの四番打者。根っからの野球好きだ。16年に引退後は、

「それまでずっと野球ばかりだったんで、いろんな人と会ったり、さまざまな飲み会に参加しながら、人脈を広げる日々でした。明徳のOB会にも出ましたし、馬淵さんとは何度もお会いしたり、修行といえる時期でした」

18年12月には、学生野球の指導者になるための資格回復研修会を受講。従来、海外プロ野球経験者はこの制度の対象外だったが、この年から受講可能となっていたのだ。晴れて資格を回復した19年2月、野球部強化に本腰を入れたい帝京平成大がコーチとして招へいしたわけだ。当時グラウンドに遊びに行くと、

「とにかく、いつでもグラウンドがあるっていうのがうれしい。なにしろクラブチーム時代は、朝の5時から整理券配布に並んだり、あちこちの自治体に登録して抽選を申し込んだり、グラウンドの確保が大変でしたから。いつも使えるグラウンドがある、というのはすごくありがたいんです」

それから丸4年。「甲子園経験者などほぼいない」チームを率い、東都の2部をうかがうレベルまで上がってきた。

河野と東都3部に上がる帝京平成大の選手たち

強豪から選手が集まるようになってきた

「おかげさまで少しずつ部員も増え、レギュラーではないにしろ大阪桐蔭、履正社、横浜、そして明徳からも学生が来てくれるようになりました。そういう競争もあって、選手の顔つきが変わってきた気はします。独立リーグの経験からいうと、アメリカの選手たちは、一見個性だけでやっているように見えますが、実は打ち方ひとつとっても理に適っているんです。そういうことを教えながら、本物のスラッガーを育てていきたいですね」

帝京平成大からは、NPB(日本野球機構)に進んだ選手はまだいない。河野自身も現役時代、NPB入りを目指したがかなわなかった。教え子を最高峰の世界へ送り出すことも、大きな目標の1つになる。

おもしろい後日談を付け加えておこう。ある年、すでに引退していた松井と、テレビ番組の企画で対談した。1打席だけ対戦もし、そのときもフルカウントからフォアボールだった。そしてオンエアされなかったが、もう1打席、対戦があったという。

「それもフォアボール。だから松井に対しては、7打席すべて四球なんですよ(笑)」

“あの夏”から、ちょうど30年が経とうとしている。

  • 取材/文楊順行

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