往年のJリーグスター選手が「岐阜でタンメン店」を開いたわけ
61歳・MF ヴェルディ川崎ほか 小6で代表入りを予言 最強ヴェルディで鍛えた身体でタンメン作り
「プロ化でどう変わったかといえば、選手によっては年俸が10倍になった。プレーしている選手はほぼ一緒なのに、スタジアムにも急にお客さんが増えて。こんなにも違うのかと思いましたね(笑)」
Jリーグ開幕前の日本リーグ時代から東京ヴェルディの前身・読売クラブで長くプレーした元日本代表MF戸塚哲也は、日本サッカーがプロ化し、大きく変わっていく様子を選手として体感した。
テクニック抜群の戸塚はジョージ与那城(71)やラモスらとともに読売クラブの攻撃の中心として活躍し、’84年には14ゴールを挙げ得点王に輝いている。’80年に19歳で日本代表に初選出されると、’82年スペインW杯のアジア予選に出場したものの、その後はしばらく代表入りを辞退していたとの逸話もある。
「辞退というか、当時の読売はジョージさんやラモスがいて、代表とは少し中身の違うサッカーをやっていて、たとえば代表合宿に1ヵ月も行って戻ってくるとチームの練習についていけなくなっちゃうんです。そんな状態で代表に行くのもどうかなと。松木さん(安太郎・64)や都並(敏史・60)なんかも読売から代表に行っていましたが、彼らはDFで、そんなに競争がなかったですから(笑)」
都並とは、小中時代の同級生という仲。小学6年のときの戸塚の言葉を、都並はずっと覚えていたと振り返る。
「二人でヤンマーと三菱の試合を見たあとに、僕が『これならオレたちのほうがうまくなるから、将来、日本代表になれるな』と言ったらしいんです。僕はすっかり忘れていましたが、二人揃って代表入りしたときに都並が教えてくれました」
現役時代に後悔があるとすれば、勝てば’86年メキシコW杯に出場できた’85年の伝説の日韓戦(アジア予選)だという。戸塚はホーム&アウェイともに1点差で敗れた2試合に出場している。
「当時、すでにプロリーグのあった韓国に勝つのは難しいという雰囲気はありました。ただ、何年か前に試合を改めて見直すと、内容は五分に近かった。そう思うと、ひょっとしたらW杯に行けたかもしれない、という気持ちが出てきて……」
引退後は指導者としてFC岐阜などで監督を務めた戸塚は、田舎暮らしが気に入って、そのまま移住。現在は岐阜県各務原(かがみがはら)市で「湯麺(たんめん) 戸塚」のオーナーとして自ら厨房に立っている。
『FRIDAY』2022年7月8日号より
- 取材・文:栗原正夫
- PHOTO:日本サッカー名蹴会
ライター
1974年、埼玉県生まれ。大学卒業後にITメディア等でスポーツ取材を開始し、現在はフリーランスとしてサッカー、ラグビーを中心としたスポーツ、芸能を取材。週刊誌やスポーツ誌に寄稿。2000年代のW杯、ユーロ、五輪はほぼ網羅。欧州を中心とした海外取材の経験豊富