73歳ガッツ石松が語る「日本ボクシング史を変えた男の壮絶人生」 | FRIDAYデジタル

73歳ガッツ石松が語る「日本ボクシング史を変えた男の壮絶人生」

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村田諒太vs. ゲンナジー・ゲンナジーヴィッチ・ゴロフキン、井上尚弥vs.ノニト・ドネアと、今年は歴史に刻まれるメガ・ファイトが我が国で催された。スーパーチャンピオンが来日し、日本人との激闘を繰り広げるのがいわば「当たり前」のように思われるようになったいま、世界との距離を縮めた「あの一戦」を改めてクローズアップしたい。

その一戦がなければ、日本のボクシング界は今日のような道を歩んでいなかったかもしれない。

ガッツ石松とロドルフォ・ゴンザレスの一戦がそれだ。

「コロナ禍、元気がなくなるようなことも多いんだよ。でもね、いま苦しいのはなぜか。それもまたWHYで乗り越えるんだ」

かつて135パウンド(61.2キログラム)の世界のベルトは、アジア人にはとても手の届かない高嶺の花とされた。その壁をぶち破った男―――第12代WBCライト級チャンピオン、ガッツ石松(73)。

彼が1974年4月11日にロドルフォ・ゴンザレスを8回KOで下して同タイトルを奪取するまで、日本人がライト級で世界の頂点に立つことなど、夢物語に過ぎなかった。

後に、フロイド・メイウェザー・ジュニア、マニー・パッキャオといったスーパースターが腰に巻く緑のベルトを手にした石松だが、この戦い、一筋縄ではいかなかった。レフェリーが、どうしてもゴンザレスを勝たせようと、露骨な動きを見せたのだ。

第8ラウンド1分14秒、石松の右フック、左フックを浴びたチャンピオンのゴンザレスは両膝を付いて前のめりにダウン。止めを刺そうと襲い掛かった石松の右、ショートの左アッパーを喰らうと、ゴンザレスは2度目のダウン。

だが、レフェリーはスリップと主張し、ゴンザレスの腕を引っ張って起き上がらせる。そのさまに会場となった日大講堂は騒然とし、石松陣営からもレフェリーに向かって怒号が飛んだ。

48年以上が経過したその日を、石松は振り返る。

「露骨なレフェリングの連続で、いい加減にしろよと思ったけれど、こっちはエンジンが掛かっていたからね。とにかく前に出ていくしかなかった。

災難だなとも思ったけれど、ガキの頃から、私はそういう運命なんですよ。真っすぐに物事が進んだことがないんです。そんな時はどうするか。いつも『WHY?』『WHY?』って、社会や目の前の状況について自分に問い掛けた。なんで俺はいま、こんなことになってるんだ?って。それを考えたうえで、『そうか。こういうことなんだ』って自分で答えを出してきた。世の中ってそんなもんなんだって捉えられた、あっけらかんとした性分が良かったんでしょう。『済んだことは済んだこと。もう一度しっかり倒してやる!』って、切り替えられるんですよ。

この試合の時もそうだった。変なレフェリングを目の当たりにして、何度も頭の中で『WHY?』を繰り返した。そうか、俺は挑戦者だもんな。倒すしかないんだと結論を出した。そう頭を切り替えたら、あとは一直線ですよ」

40年前のことを鮮明に思い出すガッツ石松さん。あの試合がなければ、日本の中量級の発展は10年遅れていたかもしれない

疑惑のスリップにもくじけず更に石松が猛攻を掛けると、ゴンザレスはついにキャンバスに沈む。いかにレフェリーが加担しようと、試合を続行することはかなわなかった。

この試合で石松は国民的英雄に。勝利の後に突き上げた「ガッツポーズ」が一般名詞としても定着した。この試合、3度目の世界タイトル挑戦だった。3度目の正直で戴冠した石松だが、実は2度目の世界タイトル挑戦こそが、自らのボクシング人生を変えたと語る。

いまも事務所に並ぶ貴重な資料の数々

ゴンザレス戦から7カ月前の1973年9月8日、石松は<石の拳>と恐れられた、WBA同級王者のパナマ人、ロベルト・デュランに挑んでいた。後にウエルター、スーパーウエルター、ミドルと4階級を制する名チャンピオンだ。この試合、いまに例えるならゴロフキンと村田戦並みのインパクトがあったことは間違いない。日本人が世界のスーパーチャンプに挑んだ歴史的な一戦について、石松はこう振り返る。

「デュランは頑丈だったし、馬力が違ったね。ボンボンボンボン、次から次へとパンチが出てくる。試合中に『ちょっと待てよ』って言いたかったくらいだよ(笑)。とにかく彼は止まらずに、前に前に出てきた。私も負けじと戦ったけど、10ラウンドで疲れてしまって、自分から倒れてしまった。あの試合は、私にスタミナがなかったから負けたんです。

ただ、この負けがなければ世界チャンプになれなかったかもしれない。あれだけの名選手と打ち合えたという自信も芽生えたし、自分に足りないものもわかったからね。要するにボクシングはテクニックじゃない、体力だと気付いたんです。

自分が王者になるためには、どうすればいいか? ここでも『WHY?』ですよ。デュラン戦で学んだことは、自分の体力不足。それから毎日10キロくらい走りました。実は私は走り込みをしなくても、東洋チャンピオンにはなれたんですよ。それでも、世界のてっぺんにたどり着くために、走り始めたんです」

ガッツ石松のこの「負けん気」はどこからくるのか。

栃木県上都賀郡栗野町で生まれ育ったガッツ石松こと鈴木有二は、貧しさから這い上がった男である。

「本当は野球選手になりたかったんです。中学生の頃は野球部に入っていて、後にプロで活躍する早乙女豊投手からヒットを打ったこともありました。でも、野球はおカネがかかるでしょう。特に練習後は腹が減る。仲間は立派な弁当を持ってきたり、その辺で牛乳や菓子パンを買って食べることが出来たけれど、我が家にそんなカネはなかった。

その点、ボクシングはパンツ一丁で、体一つでやれて、おカネがかからない。だからボクシングを選んだんですよ」

これまでに獲得したトロフィーの数々

中学卒業後に上京し、ファイティング原田が在籍する笹崎ジムに入ろうと考えた鈴木少年だったが、その場所がわからない。ある日、山手線大塚駅近くのクリーニング屋に勤務する同郷の友人を訪ねると、近くにヨネクラジムがあることを聞かされた。

「駅から近いし、大塚なら練習後に昔の悪ガキ仲間にも会えるなということで、ヨネクラジムに入門しました。

一般的にいえばこれが運命の分かれ道だったんだろうけど、ただ、運命だけじゃないんだ。選んだ道を、本当に好きになれるかどうかが肝心ですよね。好きになるから勉強出来る。強くなろうと思える。私はなんでも『WHY?』で考えて、そのたびに成長したけれど、ボクシングはWHY?だらけだったんです。

なぜこの動きが必要なのか。どうすれば強くなれるのか。それを考えるスポーツだから、自分に合っていたんです。“なんとなく”で練習していたんでは、強くなろうが弱いままだろうが、まぁいいかってなりますよ。伸びる人は必ず『WHY?』って感じるものです。そういう人は伸びしろがあるんですよ。なにかしら自分の中でWHY?を感じられるものに出会えるかどうか。それが本当の運命の分かれ道なんでしょうね」

石松はさらに「もちろん、ガキの頃からの生活環境も影響しましたよ。ボクシングは、そういう貧しい境遇にいたヤツがやるスポーツですから」と加えた。

石松が戦ったロベルト・デュランもスラム育ちで、ほとんど手作りのトタン屋根で雨露を凌いだ。ロドルフォ・ゴンザレスも、不法移民として車のトランクに身を潜めてメキシコからアメリカに渡った。18歳まで文盲だった。

「私は世界チャンピオンになる前に11敗5引き分けしているんです。ボクシング界では引き分けも負けに等しいから、16回負けているようなもの。負けてあきらめるような性格なら、とっくに終わっていましたよ。だから、負けん気がつくような子供のころからの環境は必要だったんです。

負けるたびにやっぱり『WHY?』って原因を追究して、反省しましたね。いま考えれば、成長過程の負けだったよね。負けから本当に多くのことを学習しましたよ」

徹底的に磨いたのは、左ジャブだった。

「打つだけじゃなく、相手を止めればいいんです。相手が出てくるのを待ってジャブで<止める>。そして、得意の右をぶち込む。それを自分のものにするのに8年を要しました。『ボクシングってこういうものなのか』と掴んだのは、デュラン戦の後ですよ。反復練習をしながら、自分の型を見出すのに8年かかったんです。

世界チャンピオンというのは、遠い遠いゴールでした。やり始めたころは、まさかなれるとは思っていなかったです。勝ったり負けたりしながら、試合をやる度に、『あれ?』『あれ?』ってやっていくうちに、会長や、ジムの後援者とかTV局の人が、私に目をかけてくれたんです。試合を組んでくれてね。普通はそんなに負けている人が、世界タイトルに2回も3回もチャレンジ出来ませんよ。ヨネクラジムは選手も多いし、いい選手が沢山いましたから。私にもう一つ特別な力があったとするなら、愛される力だったのかもしれません」

「右と左では拳の大きさが違うんだよ」。たしかに…

WBCライト級タイトルは5度の防衛に成功した。

「昔のボクシングは、食うか食われるかの潰し合いでした。グローブも6オンスで、ジャブをもらっただけでも目の前に蝶々とパピヨンが飛ぶような状態でしたから。リングに上がる心構えからして違うよね。本当に、殺されるかもしれないという気持ちをもってリングに上がっていた。『潰せるもんなら、潰してみろ』という感じで気が張っていましたよ」

リングを降りた後は、ご存知のように芸能界に身を転じる。

家族の歴史、芸能界での石松さんの歴史がわかる写真の数々

「俳優になってからは、台詞をしっかり頭に入れることを自分に課しました。基礎の基礎ですが、やっぱり基礎が大事。ボクシングと一緒です。現場には台本を持って行かないように努めましたね。持って行ったとしても、本番前にちらっと見るくらいです。この世界でも『WHY?』が生きました。なぜ俺にこの役が来たんだ、俺は何を求められているんだ? そのWHY?をここでも繰り返しました。

もうひとつ、芸能界に入ってからいままで以上に大切にしたのは、礼節です。監督、先輩、カメラさんたちスタッフと顔を合わせたら『おはようございます』と挨拶する。ゴマ擂りじゃなく礼儀です。誰もが最初は“ボクサー・ガッツ石松”と私のことを構えて見てきますが、私は腰も低いし、イメージが違うってことで、もっと話をしてみたいと仕事に繋がったんじゃないでしょうか。高倉健さん、橋田寿賀子さん、倉本聰さん、スティーブン・スピルバーグ監督といった一流の方々と出会うことが出来ました。

世界チャンピオンになっていなかったら、誰からも相手にされなかったでしょうが、芸能界に入った時にはボクシングのガッツ石松は忘れていましたね。違う世界に行ったんだと覚悟を決めましたから」

73歳の今日、ガッツ石松は40分ほどかけて、自宅周辺を散歩することを日課としている。

「いまも『WHY?』と問い掛ける日々です。散歩しながら色々考えますよ。特に最近は、本当に打ちひしがれるようなことが多いからね。コロナ禍、戦争の犠牲になっているウクライナ、その一方で、少しずつ貧しくなっていく日本…社会が刻一刻と変わる中で、私にはいま、どんなことが求められているのか。どうしていまの日本には元気がないのか。私自身が元気に生きていくためにも、いま何をすべきか――私はこれからも、自分にクエスチョンを突き付けながら、その答えを見つけて積極的に動いていきたいと思います」

ガッツ石松の事務所の壁には、こんな言葉が額に入れて飾られている。

<頑張り続ける底力のある奴だけが、最後に最強な運を手にすることができる>

ゴンザレスをKOしたシーンが蘇るとともに、3度目の挑戦で世界ライト級タイトルを獲った男の矜持を見た。

  • 取材・文林壮一撮影丸山剛史

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