島田陽子さん ベテラン芸能レポーターが見た波瀾万丈な女優人生 | FRIDAYデジタル

島田陽子さん ベテラン芸能レポーターが見た波瀾万丈な女優人生

芸能リポーター・石川敏男の芸能界”あの出来事のウラ側は……”

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本誌の直撃取材に毅然とした態度で答える島田陽子さん(‘97年)
本誌の直撃取材に毅然とした態度で答える島田陽子さん(‘97年)

《芸能リポーター・石川敏男の芸能界”あの出来事のウラ側は……”》

国際派女優と呼ばれた島田陽子さんが大腸がんで亡くなった。69歳だった。

17歳でテレビドラマ『おさな妻』(テレビ東京系)でデビュー。『続・氷点』(テレビ朝日系)で人気者に。

“えくぼ”が素敵で笑顔が可愛い島田さんに、映画の世界からもオファーが舞い込んだ。『砂の器』『犬神家の一族』など映画会社の大作や、米国のテレビドラマ『将軍 SHŌGUN』などだ。

『将軍』では米国ゴールデングローブ賞のドラマ部門の女優賞を受賞。押しも押されもせぬ国際派女優に育っていった。

順調に女優として大きくなっていく彼女の人生が大きく変わってしまったのが、“恋愛”だった。

’88年に公開された映画『花園の迷宮』で、ロックシンガー・内田裕也さんと共演したこと。彼には女優・樹木希林さんという奥さんがいたが、二人の恋愛は周囲の意見を無視して突き進むことになる。

内田さんが’91年の東京都知事選に立候補したとき、島田さんは陰で応援し続けた。内田さんは落選することになるが、当時は横浜にあった島田さんの一軒家が二人の愛の住処だった。

内田さんも彼女と結婚したかったのだろう。樹木さんに離婚を申し出るが、彼女は頑としてこれを拒否。結局、内田さんは離婚できなくなった。

島田さんにも別れたくない事情があったのだろうが、この一件で島田さんと内田さんの間に隙間風が吹くようになる。

そんなときにタレコミがあった。島田さんの自宅の近隣住人が、

「島田陽子さんが、自宅の2階の窓から逃げ出して屋根にいます」

という。レポーターになったばかりだったオレは、そのネタに飛びつき横浜に向かった。

すでに騒動は終わっていて、警察も介入していなかった。民事だから警察は介入できなかったのかもしれない。近所を取材すると、

「二人はケンカが絶えなかった。島田さんはいつも泣いているみたいでした」

という話は聞き出せたが、警察から情報は全く出てこなかった。その後、二人は別れることになる。別れの原因は金銭問題だったらしい。

都知事選には、島田さんも多くの金銭を投資していたようだ。この二人の恋愛スキャンダルが、島田さんの仕事を減らしてしまったことは否めない。

あの大女優にしては寂しい芸能活動になっていたが、

「監督とかプロデューサーとか、裏方でも芸能界の仕事を続けていきたい」

と周囲に漏らしていたのもこの頃だった。

そんな島田さんは、’97年にドラマ撮影で知り合ったカメラマンと結婚する。島田さんが『夕張ファンタスティック国際映画賞』の審査員を務めていた関係で

「市民の有志による手作りの結婚式を夕張神社で挙げてもらう」

ことになるが、この結婚も島田さんにとってはどうだったのだろうか。

そのカメラマンには妻子がいた。夫の収入は、すべて元妻子の元に届くようにする。そして、二人の生活は島田さんが賄うということだった。

「好きになったのだから…」

という考え方はあるが、島田さんはまだ43歳だったからなあ…。

17歳で芸能界に飛び込み、世間を知らず女優生活を続けてきた島田さん。恋愛がホント上手じゃなかったのだろう。好きな男は手に入れたが、世間の風に耐えられなくなってしまう。

芸能界には、スキャンダルを食べてどんどん大きくなっていくタレントや女優もいるが、負けてしまうタレントだっている。その典型が、島田さんだったのかな…合掌。

  • 石川敏男(芸能レポーター)

    ‘46年生まれ、東京都出身。松竹宣伝部→女性誌記者→芸能レポーターという異色の経歴の持ち主。『ザ・ワイド』『情報ライブ ミヤネ屋』(ともに日本テレビ系)などで活躍後、現在は『めんたいワイド』(福岡放送)、『す・またん』(読売テレビ)、レインボータウンFMにレギュラー出演中

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