逆境の連続……追悼・稲盛和夫さん「65歳で出家の丸坊主」写真 | FRIDAYデジタル

逆境の連続……追悼・稲盛和夫さん「65歳で出家の丸坊主」写真

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97年6月に出家した稲盛さん。真冬の道端で托鉢をすることもあったという
97年6月に出家した稲盛さん。真冬の道端で托鉢をすることもあったという

偉大な経営者が、波乱の生涯を閉じた。

大手電機機器メーカー・京セラの創業者で日本航空(JAL)名誉会長の稲盛和夫さんが、亡くなったことが8月30日に明らかになった。享年90。京セラとKDDIを大企業に育てあげ、経営破綻したJALを再建させた稲盛さんは「経営の神様」と言われる。だが、若いころは逆境の連続だった。

「太平洋戦争中に、旧制・鹿児島第一中学の入試にチャレンジしますが2年連続で失敗しています。大学受験では大阪大学医学部へ入学できず、新設の鹿児島県立大学(現・鹿児島大学)へ進学。就職でも、第一志望の石油会社への入社はかないませんでした。

京都の碍子メーカー松風工業で技術者として働き始めますが、セラミック部品の開発をめぐって上司と衝突してしまいます。退社し8人の仲間と27歳の時に設立したのが、京都セラミック(現・京セラ)です。稲盛さんは連日工場に泊まりこみ、創業12年で同社を大阪証券取引所へ株式上場させました」(全国紙経済部記者)

現在の京セラの従業員数は、連結で8万3000人ほど。稲盛さんは一代で、町工場を世界的な大企業に育てあげたのだ。

大経営者が得度したワケ

出家した1年後の98年1月。「俗世」に戻った稲盛さんの頭には髪の毛が……
出家した1年後の98年1月。「俗世」に戻った稲盛さんの頭には髪の毛が……

経営者として名をはせていた稲盛さんが、仏門に入ったのは97年6月。65歳の時だ。京都市八幡市にある臨済宗円福寺で得度を受ける。

「その前から稲盛さんは、『65歳になったら経営の第一線を退き仏教の勉強をしたい』と話していました。稲盛さんは幼い頃、結核で死線をさまよったことがあります。そうした経験から、宗教に興味を持っていたようです。

稲盛さんは京セラの社員たちに、仏教の考えを踏まえこう語っています。『あらゆる幸福も不幸も、自分の心が招いたものだ。良いことも悪いことも、自分の心がけしだいで決まる』と。稲盛さんが大切にしていたのは、経営哲学である『フィロソフィー』です」(同前)

翌98年1月に「俗世」へ戻った稲盛さん。以後は、経営に仏教の色彩がよりにじみ出るようになる。

「稲盛さんのモットーの一つが『利他』です。仏教用語で、自分のメリットより他者の利益を優先するというもの。破綻したJALの再建を任され、10年2月に無報酬で会長職に就いたのも『世のため人のために役立つことが人間としての最高の行為』という考えに基づいていました。常に社員や世の中のことを念頭に置いている、大局を見られる経営者でした」(経済誌編集者)

偉大な経営者の逝去に、経済界だけでなく政界やスポーツ界、芸能界からも哀悼の声があがっている。

85年11月。当時のスウェーデン王妃が来日した際の1枚。右から2人目が稲盛さん。左から2人目が三笠宮殿下
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98年5月。当時の元大蔵省主計局次長を京セラに入社させたことに社内から反発が。稲盛さんは本誌の直撃を無視
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12年3月。JALの飛行機が危険運行したことに意見を求めたが怒りを露わに
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  • 撮影神崎 龍 霜越春樹 谷本潤一

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