芸人・永井佑一郎が語った「アクセルホッパー」の知られざる葛藤 | FRIDAYデジタル

芸人・永井佑一郎が語った「アクセルホッパー」の知られざる葛藤

リズムネタで一世を風靡するも、実は「バナナマンみたいなコントをやりたかった」 二度の事務所移籍を経て現在はネタをNFTで販売中 「僕の人生を変えたのは確かにアクセルホッパーなんですけど、売れ始めた頃はキャラを演じるのが嫌でしょうがなかった。もっといろんな自分があることを見てほしかったんです」

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「僕の人生を変えたのは確かにアクセルホッパーなんですけど、売れ始めた頃はキャラを演じるのが嫌でしょうがなかった。もっといろんな自分があることを見てほしかったんです」

パンパンスパパンパンスパン! ’00年代中頃、「アクセルホッパー」のリズムネタで一世を風靡した男を覚えているだろうか。芸人の永井佑一郎(44)である。芸歴24年の永井は、「バカテンポ」と銘打った陽気なキャラでのブレイクと、本来思い描いていた芸人像との距離に、葛藤し続けてきたと言う。

若手時代の思い出の店は高円寺にあった『牛丼太郎』。「150円の納豆定食と200円の牛丼で食いつないでいました」
若手時代の思い出の店は高円寺にあった『牛丼太郎』。「150円の納豆定食と200円の牛丼で食いつないでいました」

「高校を卒業して1年で東京NSCに入って、’98年に吉本に入所し、地元の友達とコンビを組んだもののどうやってネタを書くのかもわからず、同期にライブのVHSを借りまくって勉強しました。

それで影響を受けたのが、バナナマンさんやカリカさんのような、オシャレで捻(ひね)りの利いたコント。当時は、ずっとそういう系のネタをやりたかったんです」

“コント師”を目指して活動するも、’00年にコンビは解散。ピン芸人としても伸び悩み、バイト生活を送る中、芸歴6年目にして自分の持ち味を見出した。

「当時、どうにかしないと世に出られないと思って、知り合い100人に『自分のどこで笑っているか』を聞いたんです。そしたらトップ3が『顔と動きとフレーズ』。このままではバナナマンさんのようにはなれない、自分の武器でやろうとたどり着いたのが『バカテンポ』でした」

’06年にアクセルホッパーはブレイクし、最高月収は80万円、北から南まで連日ライブをする日々が始まった。

「テレビデビューが『エンタの神様』でした。永井佑一郎としてではなく、アクセルホッパーとして出たんです。だから、自分にはいろんなネタがあるのを認識されないまま、キャラだけがスゴい勢いで有名になったことが悔しかったんです。ブレイク直後、チュートリアルさんとか錚々(そうそう)たる芸人とルミネに出て、自分の歓声が一番大きかった時期もありました。

お客さんは僕がアクセルホッパーをやると思ってわざわざ見に来てくださっていたのに、『酔っ払いが嫁に逃げられて、子供が自殺する』っていうネタをやった。そしたらお客さんから、本気のブーイングを食らいました。今思うと、そうだよなって話なんですけど……」

わだかまりを抱えたまま、ピークは過ぎていった。それでも「ネタを作り続けたい、自由に表現できる場所がほしい」と考えた永井は、’21年5月に吉本を退所。同年9月に歌手の田原俊彦(61)らが所属するJ-BRAVEへ移籍したのち、1年で現在のビクターミュージックアーツへ事務所を移した。現在は劇場に立ちながら、「アクセルホッパー」のネタをNFT(非代替制トークン)で販売している。

「一般の人にアクセルホッパーを広めてほしいです。複雑な思い出のあるキャラですが、やっぱり20代、30代の人に『覚えてるよ』って言われると嬉しいですし。楽しいことが世の中に広がればいいなという思いでやっています」

NFTがきっかけで再ブレイクという、史上初の芸人になる……かもしれない。

「とにかく何か考えていたいタイプ」。家は落ち着かず、ネタや企画を書く時は喫茶店にこもると言う永井
「とにかく何か考えていたいタイプ」。家は落ち着かず、ネタや企画を書く時は喫茶店にこもると言う永井
本誌未掲載カット 芸人 永井佑一郎が語った「アクセルホッパー」の知られざる葛藤
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FRIDAY2022923日号より

  • PHOTO佐藤隼秀

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