ピンク映画300本! 女性監督が「女の体を撮り続けた理由」 | FRIDAYデジタル

ピンク映画300本! 女性監督が「女の体を撮り続けた理由」

「女の性を女の手に取り戻す」映画監督・浜野佐知さんが闘ってきた相手は

  • Facebook シェアボタン
  • X(旧Twitter) シェアボタン
  • LINE シェアボタン
  • はてなブックマーク シェアボタン
映画監督・浜野佐知さん。50年のキャリアのなかで、たくさんの「女」を撮ってきた。東京・港区海岸にある倉庫には、その「フイルム」が保管されている 撮影:足立百合
映画監督・浜野佐知さん。50年のキャリアのなかで、たくさんの「女」を撮ってきた。東京・港区海岸にある倉庫には、その「フイルム」が保管されている 撮影:足立百合

「この世界で生きると決めて、ただひたすら闘い続けてきましたね。映画界と、それを作っている男社会と。壁も天井もあったけど、自分がここで生きると決めたんだから、好きなように生きたかった」

職業・映画監督。半世紀を超えるそのキャリアの中で、300本以上のピンク映画を撮ってきた女性がいる。浜野佐知さん、74歳。女性監督の草分けだ。日本で、この人以上にキャリアを重ねた監督はいないだろう。

映画が好きで「監督として自分の映画を撮りたい」と願ったが、当時、大手映画会社は大卒男子しか採用しなかった。高卒女子は入社できない。そこで、独立系の映画会社に潜り込んだ。セクハラパワハラが当たり前の助監督時代、それでもいつかはと映画に全生活を賭けた。

チャンスが転がり込んできたのは23歳のときだった。監督が現場に来ないというアクシデントが起こり、白羽の矢が立ったのだ。もちろん、心の準備はできている。そうして撮った最初のピンク映画が『女体珍味』。この作品が、配給会社や館主からの評判がとてもよかったため、翌年、自身で脚本を書いた『十七才すきすき族』で、正式に監督デビュー。その後、30代で自分の制作会社を立ち上げてからは、常に数冊の台本を抱えて現場を飛び回る人気監督になった。

「女性だから撮れる」作品が人気に

彼女のピンク映画は「女性だから撮れる」ものだった。男性監督がつい遠慮して撮れない女性の肉体の「どアップ」にそれは象徴されている

「そういうふうに撮れるのは女優さんとの信頼関係ですよね。私は女性の体は美しいと思ってるの。おっぱいも乳首もお尻の割れ目も美しい。美しいものは猥褻(わいせつ)ではない。だから陰毛のアップを撮ったりもしましたね。男性監督は当時、女性の肉体に鬱屈した男の情念をぶつけているように見えた。私は、女が快感で弾けていくところに芯を据えた。女優さんたちも『女が気持ちいいセックス』を描くことを理解して、了解してくれた。男が考えるセックスってダメすぎる。いきなり口でさせるとか、そんなの女性が気持ちいいはずがないです。男は簡単に快感を得られるけど女性は最初からエクスタシーは感じない。おもしろいもので、女性の快感を中心にしたら男性客も興味をもってくれたんです」

客も館主も、一貫して「女性が主体性を持った性」を重視した彼女の作品に魅せられたのだ。一時期はあまりにも監督作品が多く、映画館で上映する際に3本立ての作品すべてが「監督・浜野佐知」になってしまうため、「的場ちせ」という別名を使っていたこともある。

「私は自分が女だから、女性側からしか描けない。女性の性への向き合い方は変わっていかなければいけないとずっと思っていました。忖度しちゃいけない。セックスで忖度するのは自分をなくすことだし、自分の気持ちよさを手放してはいけない。男に忖度するくらいなら、ひとりで気持ちいいことをするほうがいい」

一方で、男性側も「男であること」にとらわれすぎていると彼女は言う。強くなければいけない、勃たせてなんぼ、いかせてなんぼ。そんな男の思い込みも男を生きづらくさせているのではないか、と。

「男性の思い込みを壊すことも大事だと思う。男も女も、こうでなければいけないということが多すぎる。だからお互いに苦しくなるんじゃない? 勃たなくてもいいんだと男が思えれば、男女の関係は変わっていけるはずですよ」

性は生そのものだ。女性は主体性をもたなければならない。彼女はずっとピンク映画でそのことを訴えてきた。

一般映画も撮るようになった理由

「私ね、衣食住、なーんにも興味がないの。映画さえ撮れれば、あとは何もいらない。私の人生はすべて映画を撮ることに集中したいと思って生きてきた」

きっぱりと語るその姿は、常に颯爽とした風のようだ。だが、これまでの彼女の経験は、「映画を撮りたい」がゆえに、はたから見れば苦労の連続だった。今もコロナ禍で映画の撮影ができていない状態。ピンク映画界では名の知れた監督だった彼女だが、一般映画を撮り始めたのは、1998年公開の『第七官界彷徨―尾崎翠を探して』からだ。24年間で6本撮った。きっかけは96年の東京国際女性映画祭で、「日本の長編劇映画の女性監督で、最多本数は田中絹代の6本である」という発言を聞いたこと。浜野さんは耳を疑った。自分が撮ってきた数百本のピンク映画は「映画ではない」のか、なかったことにされるのか、自分はいなかった監督になるのか。

「ピンク映画の男性監督は認められているんですよ。なのに私だけどうして、と怒りがわきましたね。私はピンク映画の中で、きちんと女性の性を描いてきた。なのに女性映画祭で黙殺されるのは我慢できなかった。怒りをエネルギーに変えるのは得意だから、あのときもそれなら一般映画を撮ってやろうじゃないかって思いましたね」

大きな壁と天井を、ときに切り崩し、ときにぶち破りながら生きてきた。だが、ただの一度も誰かに壁を取り除いてもらったり、こっそり脇から通ったりしたことはない。いつも正々堂々と「闘ってきた」のだ。

映画好きの少女が監督になって

浜野さんは、元職業軍人で漁師をしていた父と、お嬢さん育ちの母との長女として徳島県鳴門市に生まれた。2歳のころ台風で家も船も流され、父は漁師を続けられなくなったため、徳島市に越す。それでも生活が成り立たなかったのか、母の弟の仕事を譲り受ける形で静岡県に居を移した。静岡市には当時、映画街があり、毎週土曜日、両親と弟、一家4人で映画を観に行くのが楽しみだった。中学生になってしばらくたったある朝、登校する浜野さんに、父は「ごめん。今日は映画に行かれないかもしれない。頭が痛いんよ」とつぶやいた。学校に連絡が来て、病院にかけつけたが、父はもう息をしていなかった。

その後、せっせと働く母の後ろ姿を見ながら、彼女は映画街をふらつき、イタリア映画の『ニュー・シネマ・パラダイス』よろしく映写室に入れてもらうようになる。「仲良くなった映写技師のおじさん」がフィルムのすべてを教えてくれた。「映画は生き物」だと知った。そこにはわくわくするような時間が流れていた。

映画の現場でパワハラが起こる理由

300本以上のピンク映画を撮り、その世界では金字塔を打ち立て、その後は「自分が撮りたい」一般映画をも手がけている浜野さんだが、「監督がエライなんて思ったことはただの一度もない」と言う。

「権威権力とは無縁のところで生きてますね。映画監督は、作品をピラミッドにたとえれば頂点にいると勘違いしている人がいるけど、そうじゃない。作品に対する全責任は、思いやりも含めて監督にある。それは確かです。テーマも監督のものかもしれない。だけどそこで、『自分の言うことを聞け』というのは違う。映画を私物化してはいけないんですよ」

彼女は撮影現場では大声で怒鳴ることがある。助監督を「なにやってんだ、こら」と叱り飛ばすこともある。だがそれは「エラいから怒る」わけではなく、作品に傷がつかないよう、作品の命を守るために必死だからこその叫びなのだ。

「作品にはスタッフはもちろん、俳優さんも、関わった人たちすべての思いがこもっていなければいけないと思うんです。そこで誰かが泣いたり苦しんだりする映画は、作品として成立していない。男女問わず、オレの言うことを聞け、私の言うことを聞けという言葉が飛び交って作られた映画は、監督の歪んだ欲望で作られただけ。映画監督のセクハラパワハラが問題になっていますが、みんな自分が権力を持ったと思い込んでしまったんだろうなと思います」

一般映画3作目の『こほろぎ嬢』で「東京国際映画祭で赤絨毯を歩ける特典」を打診されたが、断っている。エラそうにはしたくない、私利私欲には走りたくない、そんなことをしたら自分で自分を許せなくなると真顔で言う。

赤絨毯は歩かない

「カンヌで賞をもらうとか赤絨毯を歩くとか、そういうことのために映画を撮っているわけではない。私はスタッフと一丸となって、自分が納得できる作品を作りたいだけ。アウトローでいいの。私は自分の思うように、誰の言うことも聞かずに生きていたい」

子どもの頃からそうだった。納得できないとテコでも動かない。小学校1年生のとき、級友の給食費がなくなったという騒ぎがあり、なぜか浜野さんが担任教師に疑われてランドセルの中まで調べられた。結局、給食費はその子が家に忘れてきただけだったのだが、その後、浜野さんはクラスで口をきくのをやめた。朝礼で名前を呼ばれても返事をせず、授業で指されても答えなかった。それでも学校に通い続けるところが彼女の意地と抵抗だ。これが彼女の原体験となっている。

小学6年生のとき、通信簿でオール5をつけられたことがある。国立大学の附属中学を受験する予定だったので、担任が「忖度」したのだろう。だが彼女は納得できない。

「私は逆上がりもできない。体育が5なのはおかしいと職員室に直談判に行きました。どうして5なのか、と。学校の名誉のために私を利用されたくなかった。納得できないことにはとことん疑問を呈するような子でしたね」

今もそれは変わっていない。「媚びるおもねる」は大嫌いな言葉だ。スポンサーにお金を出してもらって映画を作ることを潔しとしないから、30代半ばで旦々舎という制作会社を作った。自主制作をすれば、他人から口出しされずにすむ。そうやって、いつもまっすぐに生きてきたという自負がある。

彼女が撮った一般映画5作に出演している女優の吉行和子さんは、今回、浜野さんが上梓した『女になれない職業~いかにして300本超の映画を監督・制作したか。』(ころから刊)の帯に、「撮影現場は正直な風がびゅんびゅん吹いていて、何て気持ちがいいのだろうと感激しました」と書いている。

「まあいいか」と思う自分を殺したい

ピンク映画も一般映画も、まだまだ撮るつもりでいる。

「死ぬまで現役でいたい。私は私を生きたと思って死にたい」

低予算で数日しか撮影日数がとれないピンク映画であっても、何千万もコストがかかる一般映画も、彼女にとっては「同じ映画」だ。常に命がけである。

「私は映画を撮るとき、頭の中にすべてのカット割りができているんです。台本があがってきて、準備を重ねてクランクインし、『よーい、はい!』という第一声をあげたとき、体中から燃え上がるような気持ちになる。特に一般映画は予算をとってくるのが大変なんですよ。あらゆることと闘って、今、ここに立っている。ファーストカットにたどりついたときに自分の存在を感じるんです。本当に映画と向き合えるのは、ファーストカットまでですね、私には」

撮影中もなにが起こるかわからない。だからクランクアップしたときは「大きなトラブルなく、事故なく撮れた」らそれでよしと冷静に受け止める。その後は編集も待っているし、やりきったという感覚はないのだという。

「撮影現場で、何かがちょっと違うと思うことがあるんですよ。私の頭の中のカット割りと微妙に違う。だけどお金も時間もないし、と妥協してしまったら一生、後悔する。人が観たらわからないような些細なことだとしても、まあいいかと思ったら、私はそのときの自分を絞め殺したくなる。だから絶対に妥協はしません。自分で自分を許せないと思うようなことをしてはいけないと思う」

だからこそ、吉行さんが「正直な風」と称したのだろう。現場は常に本音が飛び交う。

浜野さんは自身の映画上映後によく「お茶会」を開く。映画を観た老若男女が集って、感想を述べ合う。それを彼女は熱心に聞く。

一般映画6作品は、特に海外の映画祭で高い評価を得ている。高齢者の性愛を描いた『百合祭』は世界中の映画祭に招聘されている。

「ドイツ在住の日本人女性が『こういう映画が作られるようになったのなら、日本も女性にとって生きやすくなりますね』と言ったんです。いいや、そんなことはないと力強く答えておきました(笑)。まだまだ高齢女性に性欲があるなんて信じたくない、信じないという男性は多いと思う。私は女性の性を女性自身の手に取り戻すというテーマのもと、これからも映画を作り続けていくつもりです」

私から映画をとったら何もないからね、と浜野さんはチャーミングな笑みを見せた。

『女になれない職業 いかにして300本超の映画を監督・制作したか。』(ころから刊)が、今月発売に。「女の性を女の手に取り戻す」ことを目指す浜野さんは「この本を作るのにもさ、ずいぶんバトルしたのよ」と笑った

  • 取材・文亀山早苗撮影足立百合撮影協力新日本映像(株)

Photo Gallery2

FRIDAYの最新情報をGET!

Photo Selection

あなたへのおすすめ記事を写真から

関連記事