『いだてん』が10倍楽しくなる、史実からみた日本オリンピック | FRIDAYデジタル

『いだてん』が10倍楽しくなる、史実からみた日本オリンピック

ドラマ前半の見せ場をいち早く紹介

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実は東京五輪は過去に2回あった?

本日から放送が始まる大河ドラマ『いだてん 日本オリムピック噺』。朝ドラ『あまちゃん』の宮藤官九郎が書き下ろすオリジナル脚本で、前後半で主人公が変わるという異例のドラマだ。

『いだてん』公式Webサイトより
『いだてん』公式Webサイトより

主人公交代には、「東京五輪は過去に二度あった」という背景がある。私たちが知っている1964(昭和39)年の東京五輪より24年前、1940(昭和15)年の第12回オリンピックは東京で開かれるはずだった。つまり2020年のオリンピックは、東京にとって「三度目のオリンピック」なのである――。

オリンピックが近づくと、毎回ギリシャで聖火が灯されるニュース映像が流れる。そのためか、古代ギリシャ以来、ずっとオリンピックは開催され続けてきたと思っている人も多い。だが、オリンピックは紀元393年まで開催された後、約1500年もの間、中断している。

現代のオリンピック(近代オリンピックという)が始まったのは意外に最近で、1896(明治29)年。そのころの日本は、大日本帝国として初めて体験した近代戦争=日清戦争(1894-1895)に勝ったばかりだった。

江戸時代、戦はサムライの専売特許だったが、明治維新後の日本は国民皆兵体制となっていた。つまり「男子は皆、身体を鍛えることがお国の為になるのだ!」という空気が横溢していた時代だったのである。

スポーツは楽しむものでなく、体育、いやむしろ鍛錬に近かった。徴兵されたらいきなり鉄砲を担いで行軍することになるのだから、そりゃあ準備のためにも鍛えておかなければならないし、国のほうだって一人でも健康な兵隊を欲しいわけだから、国民は「体育」「健康増進」につとめよ、とうるさく触れ回っていた。

『いだてん』の背景に、そういう時代の雰囲気があったことを知っておくと、なんだって皆がしゃかりきに体を鍛えているのかがわかるのではないかと思う。

道頓堀の名物グリコ看板。このゴールインマークは1935(昭和10)年に初めて設置され、そのモデルの一人が『いだてん』主人公・金栗四三だった
道頓堀の名物グリコ看板。このゴールインマークは1935(昭和10)年に初めて設置され、そのモデルの一人が『いだてん』主人公・金栗四三だった

キーパーソンは役所広司

近代オリンピックが始まった時、『いだてん』前半の主人公で、日本初のオリンピック選手になった金栗四三(かなくりしそう/演:中村勘九郎)は4歳だった。

熊本で生まれた金栗も子供たちの憧れである海軍兵学校を目指したが、受験に失敗。それでも成績優秀だったため、兄(演:中村獅童)の仕送りで東京に出てくることができた。東京高等師範学校(現在の筑波大学)に入って教員を目指すことになったのだ。
その校長が、嘉納治五郎(演:役所広司)だった。

嘉納は講道館の創設者、近代柔道の父として名高いが、東京帝大(現在の東京大学)を出たのち、学習院や高等師範で教鞭をとり、文部省にも在籍した教育家だ。ちなみに学習院で教えていたのは政治学と理財学(現在の経済学)であって、決して柔道だけで生きてきた人ではない。

嘉納が師範学校で目指したのは、「広い知識」「清潔な心」「たくましい体」を持つ教師を育成すること。そのために校内長距離走が実施されており、金栗は、そこでめきめきと頭角を現していく。

金栗四三が東京高等師範に在籍していた1909(明治42)年、東洋で初めての国際オリンピック連盟(IOC)委員に選ばれた嘉納治五郎は、近代オリンピックの創設者クーベルタン男爵から1912(明治45)年に開かれる次回ストックホルム五輪にぜひ日本選手団も参加してほしいという打診を受けた。

嘉納は快諾するが、まだまだ「スポーツ」という言葉すらも一般になじみが薄い頃だ。はて、何に出れば? と考えたとき、オリンピック種目の中で日本人が出場できそうなのは陸上競技(いわゆる徒競走)だけだった。

日本人は昔から走ることが好きだった

江戸時代、庶民に人気を博したスポーツといえば、なんといっても大相撲。次に流鏑馬。この二つは「神事」を観戦するという「見るスポーツ」だったが、「Doスポーツ」も一つあった。それは富士登山だ。老いも若きも「霊峰富士」に登りたがり、60年に一度は女性も登ってよいとされていた。今では五合目までバスで登っての登頂だが、当時はもちろん一合目から徒歩である。当時の日本人は今よりずっと健脚だった。

しかも、日本人はどうやら昔から走ること(加えてそれを見ること)を娯楽と感じていたらしい。なんと金栗本人が、東京高等師範に入学して間もないある日、上野公園に菖蒲見物を見に行った際、こんな光景を目にしていたという。

<“何ごとですか”と聞くと“競走だ”という。見ると鉢巻きをしめ、シャツ、パンツ姿の若者が不忍池の周囲をドンドン駆けている。選手が通過するたびに、黒山の人だかりから“××ガンバレッ”“〇〇さんしっかりッ”とすごい声援だ。“やはり××は強いな。あの分じゃ記録が出るぞ”と話し合っているものもいる。四三は「競走」なるものを初めて見た。そして競走とはこんなにも人気があるものかと驚いた。>(『走れ二十五万キロ マラソンの父金栗四三伝』より)

当時、不忍池では何度となく競走大会が開かれ、人気を博していたのだ。後に金栗は日本初の駅伝=東海道駅伝を発案し、自身も出場するとき、ゴールを東海道の終点である日本橋でなく、不忍池畔の上野博覧会場とした。それはきっと不忍池が「徒競走の聖地」だったからなのだろう。今、不忍池のほとりには「駅伝発祥の地」の碑が建っており、ジョギングする人がその横を通り過ぎていく。

スタートの京都・三条大橋(上写真)と、ゴールの上野・不忍池(下写真)に建てられている駅伝の碑。開催100年目の2017年4月29日に設置された
スタートの京都・三条大橋(上写真)と、ゴールの上野・不忍池(下写真)に建てられている駅伝の碑。開催100年目の2017年4月29日に設置された

さて、ストックホルム五輪には、短距離(100m走など)と長距離(マラソン)の2名の日本選手を送ることになった。オリンピック前年に開かれた「オリムピク大会予選会」を勝ち抜いたのが、三島通庸子爵の息子で東大生だった三島弥彦(演:生田斗真)、そして金栗四三である。金栗はなんと、この予選会が30キロ以上走った初めての経験だった(もっとも三島も飛び入り参加だったのだが)。

選手に決まったはいいが、はるか北欧の地まで行く費用はすべて「自腹」。シベリア鉄道を使ってユーラシア大陸を横断し、初めて欧米の選手たちと競い(欧米以外からの参加は日本だけ)、視察をして帰ってくる。近代オリンピックはクーベルタン男爵が提唱した「紳士のアマチュアスポーツ」だから、社交のために現地滞在時は燕尾服に山高帽の礼装もそろえなければならなかった。ZOZOの前澤社長が自腹で月に行くのより何百倍も大変だ。

しかし「故郷の誉れだ」と熊本県や周囲の人々が奔走して寄付金をかき集めてくれた。おかげでなんとか参加できたストックホルム五輪のマラソン当日、中間地点を過ぎて金栗はなんと行方不明になってしまう。じつは酷暑に負けて意識朦朧となり、沿道の民家で救助された後、あまりのふがいなさに愕然としてゴール会場に向かわず、帰ってしまったのだった。どうなんだろう、それ、とは思うが、それだけ金栗の絶望は深かったのだ。

主人公・金栗四三は「箱根駅伝」の創設者でもあった

屈辱の帰国後、金栗は狂気のごとく走って走って走り回る。文字通り、走ることに命を懸けるようになっていった。次のオリンピックでの雪辱を期すため、「できる限り過酷な環境で走る」ことを自分に課していった。

その後の彼は2度オリンピックに出場しながらも結局、優秀な成績を収めたとは言えなかった。が、国内では無類の強さを発揮し、また後進の指導にあたっても自身の信条をベースとした。その一環としてできたのが1920(大正9)年に始まった「箱根駅伝」なのだ。「開催時期は酷暑か極寒の時期」「コースにも難所あるべし」という金栗のリクエストがあったからこそ、過酷な箱根の坂を駆け上がる、世界にもまれなエクストリームレースが誕生したというわけだ。

箱根駅伝往路ゴール脇、富士山を見晴るかす芦ノ湖畔にある「箱根駅伝ミュージアム」に展示されている金栗四三の色紙額
箱根駅伝往路ゴール脇、富士山を見晴るかす芦ノ湖畔にある「箱根駅伝ミュージアム」に展示されている金栗四三の色紙額

前述したように、当時の大日本帝国が「国民の身体能力の向上」を目指した背景には、富国強兵政策があった。しかしそれは同時に日本のスポーツの足を引っ張ることにもなった。
1936(昭和11)年の第11回ベルリン大会では、当時日本に併合されていた朝鮮の孫基禎がマラソンで金メダルを獲得し、表彰台の中央に日の丸があがった。その直前に開催されたIOC総会で、4年後の1940(昭和15)年に東京五輪が開催されることに決定したのである。IOC総会で最後の招致演説を行ったのは、金栗の恩師・嘉納治五郎だった。

が、決定翌年の1937(昭和12)年、盧溝橋事件を契機とした日中戦争が勃発。当初短期間で終結すると思われていた戦争は泥沼化して国力に余裕がなくなった上、国際的にも非難を浴び、日本はオリンピック開催返上を余儀なくされる。一回目の「東京オリンピック」は幻に終わったのだ。

幻の東京五輪が開催されるはずだった年に生まれたものがある。日本が、第12回オリンピック招致を推進した理由は、この年、1940(昭和15)年が「皇紀2600年」だったことが大きかった。戦前、初代の神武から続く天皇は「現人神(あらびとがみ)」とされ、天皇家にとっての周年祭にあたる昭和15年にはさまざまな催しが開催されている。そしてこの年誕生した戦闘機にも、「皇紀2600年」にちなんだ名がつけられた。それが「零式艦上戦闘機」=ゼロ戦である。

平和の祭典であるはずのオリンピックではなく、ゼロ戦が生まれた年。『いだてん』の前半では、おそらくそこまでが描かれるはずだ。

取材・文・撮影 花房麗子

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