【密着インタビュー】『純烈』が「紅白」に選ばれた理由
健康ランドから出てきたオッサンアイドルグループがまさかの出場
酒井 11月14日にレコード会社で衣裳合わせをしていたら、スタッフが突然飛び込んできて「『紅白』出場が決まった!」と叫んだんです。全員が大号泣でした。本番では嬉しさのあまり泣いちゃうかもしれない。そのくらい感情むき出しで歌ってみたいですね。
白川 出場会見が終わってすぐ母に電話で報告したんですが、照れ屋な母は泣くのを堪(こら)えていたのか……。すぐに電話を切られてしまいました(笑)。
’18年のNHK「紅白歌合戦」に出場が決まり、コーラスグループ『純烈』メンバーたちは現在の心境をこう話した。ムード歌謡を歌う『純烈』は’07年に結成。平均年齢40歳を超える中年男性5人組のグループだ。全国の健康ランドを中心に活動し、中高年女性の熱い視線を集めてきた。メンバーのほとんどが元特撮ヒーローで「夢は紅白、親孝行」を掲げて活動。結成11年にして、ついに悲願の紅白出場を果たした。
酒井 グループ結成のきっかけは、’07年でした。僕が映画の撮影でジャンプに失敗して右足を複雑骨折してしまったんです。全治2ヵ月の大ケガで、入院中に6日連続で同じ夢を見る不思議な体験をした。前川清さんが『長崎は今日も雨だった』を直立不動で歌っている夢です。これは何かのお告げかなと思い、退院するときには、僕はムード歌謡で紅白に出るくらいの歌手になる、メンバーを集めなければという思いに至りました。
小田井 最初に誘われたときは断りました。当時36歳で、この年齢になって役者の仕事をやめて新しい挑戦をすることは考えられない。思いが変わったのは、当時、新宿コマ劇場前を通ったとき、北島三郎さんのポスターに一部が芝居、二部が歌謡ショーと書かれていたからです。歌手と役者の”二刀流”なら僕でもできるのかなと。
後上 僕は当時、東京理科大の学生でした。芸能事務所に勤める先輩から電話がかかってきて『明日事務所に来てくれ』と言うので行ったら、純烈の初期メンバー3人が歌っているPVを見せられた。先輩に「どうだこれ」と聞かれて、正直ダサいなと思いました(笑)。「お前これやりたいっしょ」と言うので、イベントの手伝いだと思って「やりたいッスね」と答えたら歌う側だったんです。
メンバーが揃い、グループ名も酒井が好きな「純情」と戦国武将マニアの所属事務所社長が好きな「烈将伝」という言葉をつないで『純烈』と決めた。3年間のボイストレーニングのあと、’10年に『涙の銀座線』でデビュー。だが、まったく売れなかった……。
酒井 レコード会社との契約が打ち切られ、老舗キャバレーなどの営業が中心になりました。月に3~4回、池袋、赤羽、北千住などの店をまわった。お客さんは酔っ払っているので、『よっ! EXILE!』なんてヤジられるからツラかったですね。そんな時、テリー伊藤さんが偶然店に来ていて、「今の時代にムード歌謡って面白いじゃん! 続けなよ」と言ってくれたんです。その後、テリーさんが自身の出演する『スッキリ』という番組に僕らをゲストとして呼んでくれた。あれがなかったら終わっていました。
友井 テリーさんが呼んでくれたテレビ番組を見た人が、スーパー銭湯でやってみないかと声をかけてくれた。歌いに行ったら、食事が出るし風呂に入れる。ここを中心にやっていこうと決めたんです。
酒井 口コミが広がって、’16年にTBSの深夜番組で取り上げられた。「前日の夜中からおばちゃんがスーパー銭湯に長蛇の列を作る」という形で紹介され、それがオンエアされて、ブワーッとワイドショーの取材が入るようになりました。
12月9日、相模健康センター(神奈川県座間市)は300人を超えるマダムたちの熱気に覆われた。会場に一番乗りした東京・世田谷区の梅木美穂子さん(77)は、「初めて見たときは歌も踊りも正直ヘタだなって思いました(笑)。だけどなぜか応援したくなる。もう息子を見守るような感覚です」と話す。高齢者の人気が紅白出場を後押ししたのだ。
後上 僕らのライブでは、70代~80代の女性たちがピョンピョン飛び跳ねたり、日常では見せないような元気な姿になる。やりがいを感じます。
酒井 紅白出場が決まり、ファンの方からは「遠い存在になってしまうのか」との不安の声も耳にしますが、今後もスーパー銭湯での活動を続けます。スーパー銭湯って演出ができないんです。武道館や東京ドームでは、派手な照明や舞台演出でお客さんを楽しませることができます。一方、それがないスーパー銭湯でライブをやることでかなり鍛えられる。紅白出場が決まりメジャーになっても、この姿勢は変えないつもりです。

白川裕二郎 42

小田井涼平 47

酒井一圭 43
友井雄亮 38

後上翔太 32







撮影:鬼怒川 毅撮影協力:湯乃泉相模健康センター