さようならアントニオ猪木「燃える闘魂よ、永遠なれ」秘蔵写真公開 | FRIDAYデジタル

さようならアントニオ猪木「燃える闘魂よ、永遠なれ」秘蔵写真公開

特別追悼企画 享年 79 本誌が捉えた秘蔵写真を一挙公開 激動の時代を生きたカリスマの素顔に迫る

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いつまでも燃え続けると信じていた「闘魂」が、ついに消えた――。

数々の死闘を繰り広げたその姿を通じて、日本中に勇気と活力を与え続けたアントニオ猪木。将星の消失に、多くの人が悲しみに暮れている。当時16歳で猪木の付き人となったプロレスラーの藤波辰爾(たつみ)(68)は、涙ながらにこう語った。

「猪木さんに憧れた人は数え切れませんが、僕もその一人です。僕の永遠のヒーローですし、また永遠の師匠。そして、僕の人生そのものでした。猪木さんは、いつも夢を持っていた。最後にお会いしたのは今年8月。『あそこのうなぎは美味いからまた食べたい』などたわいもない会話でしたが、その目の奥は燃えていた。この人はまだまだやりたいことが沢山あるんだなと思うと同時に、人生でボーっとしている時間などあってはならないと教えられたようでした」

ケタ外れの熱情は、プロレス界だけでは収まらなかった。政治家に転身すると、各国を訪れ独自外交を展開。イラクでは人質状態にあった在留日本人の解放に貢献するなど、国際社会でも活躍した。猪木を間近で見続けたプロレスラーで文京区議・西村修氏(51)が、猪木が晩年抱いていた「夢」について明かす。

「『北方領土でプロレスをして、日露友好にも尽くしたい』と豪語していました。政治家としても発想のスケールがケタ違いなんです。北朝鮮を訪問する際には、各方面から渡航しないよう警告を受けていたようですが、『たとえ反則と見なされても、4カウントまでなら大丈夫だ』と考え、信念を貫いた。日本を、世界を変えるには、柔軟な発想と大胆な行動力が必要だと教わりました」

常に世界を視野に入れて行動していた猪木だが、一方で、新日本プロレスのリングアナとして猪木を見続けてきた田中秀和氏(63)は、目の前のファンを大切にすることも猪木の魅力だったと証言する。

「世間の期待を裏切ってはいけないと、ファンの前では絶対に弱音を吐かないし、弱った姿も見せなかった。本当にファンを愛し、ファンに愛された人でした。試合が終わって、旅館やホテルに着くと、地元の子供たちが猪木の帰りを待っている。その子たちに『君たち、色紙の裏に自分の名前を書いて、フロントに置いときなさい』と声をかける。翌日までに必ず自分で子供たちへのサインを書いていました。翌日、そのサインを取りに来た時の子供たちの笑顔が忘れられない。猪木さんの存在そのものが、みんなを元気にしてくれたんです。もう一度、満員の東京ドームのリングに上がってもらい、猪木さんの名前をコールしたいと思っていました。その願いがかなわないのが、残念でなりません」

もう二度と、アントニオ猪木の名がコールされることはない。たしかに、炎は消えた。それでも、彼が命を懸けて見せた「闘魂」は、ファンの記憶と心の中に、いつまでも残り続ける。

いつ何時、
誰の挑戦でも受ける

力道山にスカウトされプロレスラーになった馬場と猪木。力道山は当初猪木のリングネームを「死神酋長」にしようと検討していたともいわれている。「馬場と猪木、どちらが強いか」は永遠の問いだ。

新日本プロレスを象徴するトレーニング器具「プッシュアップバー」で腕立て伏せをする猪木。この姿を見てレスラー志願の若者が急増した
新日本プロレスを象徴するトレーニング器具「プッシュアップバー」で腕立て伏せをする猪木。この姿を見てレスラー志願の若者が急増した

猪木・アリ戦(’76年)

説明不要の猪木・アリ戦(’76年)。対戦のきっかけは日本のスポーツ紙に「クレイ(アリ)が東洋人の格闘家と対戦したがっている。勝てば賞金も出すと言っている」という情報が掲載されたことだった。

猪木・アリ戦(’76年)
猪木・アリ戦(’76年)

猪木・ブルーザー・ブロディ戦(’86年)

’86年9月16日大阪城ホールでブルーザー・ブロディと60分フルタイムの死闘を繰り広げた猪木だが、実はその1ヵ月前のハワイ・ワイキキビーチで「偶然」遭遇していた。

猪木・ブルーザー・ブロディ戦は86年に行われた。
猪木・ブルーザー・ブロディ戦は86年に行われた。

猪木・ショータ・チョチョシビリ戦(’89年)

’89年、新日本プロレス初の東京ドーム(闘強導夢)興行のメインでミュンヘン五輪柔道金メダリストのショータ・チョチョシビリと対戦し、異種格闘技戦で初の敗北を喫した。

猪木・ショータ・チョチョシビリ戦(’89年)
猪木・ショータ・チョチョシビリ戦(’89年)

猪木・ビッグバン・ベイダー戦(’96年)

’96年、東京ドームでビッグバン・ベイダーと対戦。ベイダーの投げっ放しジャーマンで猪木の首が折れ曲がる場面は衝撃を与えた。それでも延髄斬りで応戦し、腕ひしぎで勝利。

猪木・ビッグバン・ベイダー戦(’96年)
猪木・ビッグバン・ベイダー戦(’96年)

’02年 大晦日

’02年の大晦日「イノキボンバイエ」でボブ・サップに肩車され、「3、2、1、ダーッ!」とカウントダウン式ダーッ!を披露。一時期は猪木の登場が年末の風物詩となっていた。

’02年 大晦日
’02年 大晦日

別れる時にはもう次の恋が始まっている

左:’71年3月26日、ロサンゼルスのオリンピック・オーデトリアムで王者ジョン・トロスを破り、NWA認定ユナイテッド・ナショナル王座(UNヘビー級王座)を奪取。ここから猪木のプロレス人生の快進撃が始まる。倍賞美津子はその雄姿をリングサイドで見守った。

右:’71年11月2日、東京・京王プラザホテルで開かれた倍賞との結婚式は、「1億円挙式」と報じられた。各界から1000人超が招かれ、ウェディングケーキの高さはなんと5メートル! 引き出物は13代目柿右衛門陶作の皿と猪木の第二の故郷・ブラジルの蝶の標本だった。

猪木と倍賞美津子
猪木と倍賞美津子
’88年、猪木の不倫騒動を機に17年間の結婚生活が幕を閉じる。倍賞も俳優の萩原健一との熱愛騒動があった。離婚後も倍賞の弟・鉄夫さんが新日本のレフェリーを務め、猪木事務所の社長に就くなど親交は続く。’02年、『新日本30周年記念興行』で倍賞が猪木に花束を贈呈
’88年、猪木の不倫騒動を機に17年間の結婚生活が幕を閉じる。倍賞も俳優の萩原健一との熱愛騒動があった。離婚後も倍賞の弟・鉄夫さんが新日本のレフェリーを務め、猪木事務所の社長に就くなど親交は続く。’02年、『新日本30周年記念興行』で倍賞が猪木に花束を贈呈
’86年5月21日、日立市池の川中央体育館に現れた猪木は坊主頭!この3日前、『FOCUS』に浮気現場を撮られていた
’86年5月21日、日立市池の川中央体育館に現れた猪木は坊主頭!この3日前、『FOCUS』に浮気現場を撮られていた

上:’91年1月5日、マイアミにて22歳年下の尚美さんとの結婚式を挙げた猪木。「(俺は3度目だけど)女房のほうは初めてだからね。ぜひ、ケジメをつけたいと思っていたんですよ」

下:’17年2月20日、猪木の74歳の誕生日に30年以上にわたって支えてきた橋本田鶴子さんと4度目の結婚。しかし、’19年8月、田鶴子さんはすい臓がんにより62歳の若さで亡くなった。

踏み出せば
その一足が道となり、その一足が道となる

左:’95年4月28・29日の両日、北朝鮮でプロレス興行「平和の祭典」を開催。2日間で38万人を集めた。猪木は計33回北朝鮮を訪問した。なお、この興行に出場していた佐々木健介と北斗晶が、ここでの出会いを契機としてのちに結婚したことも忘れてはならない。

右:’17年にも北朝鮮を訪問。中南米の帽子・ソンブレロを被って帰国したため、様々な憶測を呼んだ。なお、’90年にはキューバを訪問しカストロ議長とも面会。

’90年 湾岸戦争でも活躍

左:最大の外交成果といえば、’90年12月、湾岸戦争の最中にイラクを訪問し、在留日本人の解放に尽力したこと。猪木がサダム・フセインに託した手紙が奏功したとも。帰国した日本人と空港でダーッ!で喜びを表現。

右:人質解放の3ヵ月前に、バグダッドに乗り込む。滞在中もフセインの看板の前を走りトレーニングを欠かさなかった。のちにイスラム教にも入信、「モハメド・フセイン・イノキ」と名乗り、各地の信頼を獲得する。人並み外れた発想で外交の難局を打開した。

迷わず行けよ、行けばわかるさ

左:’89年10月8日、東京・国立競技場で行われた『中南米大使チームvs.国会議員選抜チーム』のサッカー親善試合に出場。試合は1-7で完敗。さすがの猪木もリングの上と同じようにはいかなかった。実は、意外なことに幼少期の猪木は運動神経が鈍かったといわれている。

右上:モハメド・アリとの異種格闘技戦の調印のため、ニューヨークを訪れた猪木・倍賞夫妻は空き時間に大リーグのヤンキース戦を観戦。ただ、猪木に野球帽はちょっと似合わなかったかも……

右下:’89年10月14日、会津若松市県営体育館で行われた『民社党代議士を励ます会』に参加した猪木は講演中に暴漢に襲われた。血だらけで演説を続けた猪木は入院。尚美夫人が心配そうに見つめる。

社会活動にも尽力

左:’07年11月、サンゴ保護プロジェクトに乗り出し、水中に潜る猪木。おなじみの「1、2、3、ダーッ!」をアレンジし、「1、2、3、ゴーッ!」と渾身のダジャレを披露し、場を沸かせた。

右:’02年3月、猪木は磁石の力だけで半永久的に発電することができる「永久発電機」を発表。世間を大いに驚かせた。だが、いざスイッチを点けてもピクリともせず、この表情に。

どうってことはない。
「死んだ」と思ってないんだから

’16年9月、六本木の居酒屋にて生ビールで喉を潤す猪木。この前日まで5泊6日で北朝鮮を訪問、当時のナンバー2・金永南(キムヨンナム)最高人民会議常任委員長らと会談していた。日朝関係が緊迫状態にあり、訪朝は強く批判されたが猪木はどこ吹く風。豪快に生ビールを飲み干した。

’19年6月26日、「元気を売る人間が、元気を売れなくなった」と政界引退宣言。その翌日、猪木は杖を突きながら麻布十番の高級焼き肉店で行われた政界引退打ち上げ会に向かった。奇しくも、最後の登院となった日は、’76年にモハメド・アリと戦った日と同日だった。

 

『FRIDAY』2022年10月21日号より

  • PHOTO乾 晋也 小松寛之 坂口靖子 西 圭介 原 一平 宮坂雅紀 アフロ 共同通信社 講談社資料室

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