働く女性の先駆け…皇室ジャーナリスト渡邊みどりさんが遺したもの
皇室ジャーナリストの渡邊みどりさんが亡くなった。東京・麹町にある一人暮らしのマンションで倒れているのが発見されたという。近年は背中や脚に痛みがあり、表舞台に出ることは減っていたが、ジャーナリストとして60年余りにわたる取材経験と豊富な知識を元に、皇室の話題について明晰な発言をしていた。今夏、入院先の病院から帰宅した際、
「わたしはね、そろそろお迎えがくるから、次の天皇を見ることはないけれど、日本は、きっと大丈夫よ」
と、笑顔で話していた。
眞子さまの結婚を一貫して応援した
秋篠宮家の長女・眞子さまの結婚は、「世間」から大きなバッシングを受けた。そのなかで、渡邊さんは一貫して「若いふたりの人生だから」と肯定し続けた。
「美智子さまはかねがね、『結婚は自分の意志で決めるもの』と、おっしゃってました。眞子さまは今、ほんとうにあの方がお好きなんですから、その気持ちを大切に思います。ただし、ひとつだけ条件が。ご結婚の際に用意されるお金はけっして少なくありません。それを受け取らず、若いふたりが力を合わせて生活を立ててゆく、その覚悟ならば、なにも恐れることはないでしょう」
そんなふうに、理解を示した。そして、眞子さまには、
「よくがんばりました、と伝えたいですね。あれだけのバッシングに耐えて、眞子さまは親とも対立して、それでも貫き通した。眞子さまの一途さは相当のものです。ある意味、さすが皇族という意志の強さを感じます。そしてね、この一途さ頑固さは、お父様そっくりでもありますね。
眞子さま、圭さん、ともに30歳での新生活。不安はありません。どうかお幸せにと祈るばかりです。ほんとうに、おめでとうございます」
と、エールと祝福を送った。
キャリアのスタートは「雑用」
渡邊さんは、早稲田大学を卒業し日本テレビ放送網に入社、「働く女性」の先駆でもあった。1959年、当時の皇太子と美智子さまのご成婚を取材。以来皇室報道に携わった。1989年の昭和天皇崩御の際はチーフプロデューサーとして放送を統括。退社後は、文化学園大学客員教授も長く務めた。
テレビ局時代、セクハラが当たり前のような職場で「女なんかに仕事ができるか」と言われ「雑用を極める」ことから周囲を認めさせたという。
「渡邊が手配する弁当は安くてうまい、って評判だったのよ(笑)。雑用でもなんでも、一所懸命にやったの。そうして居場所を作っていったの。だからって、女を捨てるとか、男勝りとか、そういうことはしなかった。とにかく仕事を続けること、諦めなければチャンスがあるもの」
都心のマンションに一人暮らし。たくさんの本や資料、取材先の国内外で見つけた家具や食器など好きなものに囲まれた生活だった。服や帽子は、古いものも大切に身につけていた。同世代の美智子さまとは逆の生き方のようにも見えるが、根底に通じ合う「誠実」「気品」そして「強さ」があった。
皇室のニュースがあるたびに、歴史をひもといてその背景を解説してくれた。古典、美術の知識も豊富で、なにより「皇室という存在」を大切に思っていた。
「あなたにね、お伝えしたいことがあるのよ」
最後までジャーナリストとして強い好奇心を絶やさず「自分の意見」を明確にもった人だった。享年88。ご冥福を心からお祈りする。