激白 門田博光「関西パ・リーグ漢塾」 | FRIDAYデジタル

激白 門田博光「関西パ・リーグ漢塾」

ノムさんが恐れた「三悪人」のひとりが登場! 二日酔いで猛打賞、生意気な小宮山をピッチャー返しでシメて、ブーマーとハイタッチして脱臼

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王貞治、野村克也に次ぐ歴代3位となる通算567本のホームランをカッ飛ばした門田博光。フルスイングと生来の負けん気の強い性格で、40歳で本塁打王と打点王の2冠を獲得。「不惑の大砲」の壮絶な半生とグラウンド内外の伝説を振り返る!

かどた・ひろみつ ’48年2月、山口県生まれ。奈良の天理高からクラレ岡山に進み、ドラフト2位で外野手として南海に入団。身長170cm、体重81kgの小柄な身体ながらフルスイングでホームランを量産。プロ23年間で打率.289、567本塁打、1678打点。本塁打王3回、打点王2回獲得。左投げ左打ち

1年目から強烈”口撃”
ノムさんとガチバトル

「オッサンには、よう小言を言われましたワ。『オマエは大振りし過ぎる』『ホームランなんて打たんでエエ。四球でもヒットでも、ワシの前に塁に出ること。それがオマエの仕事や』とね。入団当初、オレが3番を打ってあの人が4番を打っとった。オレがホームラン打ったら『打点が稼げなくなるから打つな』ということです。どこまでも自分が一番。そんなけったいな選手が、あの頃のパ・リーグ、特に関西の球団にはゴロゴロおりました」

「小さな巨人」「不惑の大砲」「ホークスの4番」――。’70年代〜’90年代に、そう呼ばれファンに愛された漢(おとこ)がいる。40歳で本塁打王と打点王の2冠を獲得し、南海、オリックス、ダイエーで23年間フルスイングにこだわり続けた御年70歳の門田博光である。門田が南海に入団したのは’70年。当時ホークスで選手兼監督をしていたのは、門田が「オッサン」と呼ぶ野村克也だ。江本孟紀、江夏豊とともに「指導に手こずった三悪人」に指名された門田だが、「オッサンこそ悪人だ」と失笑する。

ノムさんとのバトルに触れる前に、まずプロ入りまでのいきさつを振り返ろう。

「高校(奈良県の天理高)を卒業して入社したのは、『クラレ岡山』(岡山県)という繊維会社です。選手は夕方まで工場で働き、夜間に練習するんですが、当初からプロを目指していたのでこう宣言しました。『オレは仕事を習いにきたんじゃありません。何年かしたらここを辞めてプロに行くので、繊維のことは何も教えてもらわんで結構です』と。思い返しても生意気ですが、自分で『4年以内にプロに行けなければ野球を辞める』と決めとったんです。ただ当時のクラレはレベルが高く、1〜2年目は補欠でした。焦り始めたある時、チームメイトがこう言うたんです。『ホームラン打てるヤツは最初っから決まっとるんや』と。本人に悪気はなかったんでしょうが、この言葉にオレはカチンときた。『そんなん言うたらオレも打ったるワ』とね。それからは毎日、二日酔いだろうがヘドを吐こうが納得するまで寮の大鏡の前で何時間もバットを振り続けたんです。おかげで飛距離は徐々に伸び、3年目にはクリーンナップを任されるようになりました。それからですワ。常にフルスイングを意識するようになったのは」

本人がリミットと決めた4年目、門田はドラフト2位で南海に指名されプロ入りする。待ち受けていたのはノムさんの洗礼だ。

「春のキャンプで監督室に呼ばれ、『社会人とプロは違うか?』と聞かれました。『そうですね。アマチュアのほうがよう練習しますね』と答えると、オッサンの顔色が変わった。『練習熱心なんやのう。オマエの取り柄はなんや?』と、語気を強めて言うんです。オレは『ヒットならナンボでも打てます』と答えました。実際にホームランを打つにはパワーと技術がいるが、社会人時代の猛練習でヒットはいつでも打てるという自信がありましたから」

開幕直後から、門田は代打で起用された。1打席、2打席……門田は自身の言葉通りヒットを重ね5打席連続安打を記録する。記録は6打席目で途絶えた。すると、ノムさんから呼び出しがかかる。こんなやりとりがあった。

ノムさん 「ナンボでも打てる」って言うたやろ。あれはウソか!

門田 エッ!? ずっと打ち続けなきゃあかんのですか?

ノムさん 当たり前やろ。自分の言葉には百パーセント責任持たんかい!

「そこまで言われたら、こっちも『何ほざいとるんや、ボケ!』とカッとなります。確か7打席目は、ホームランやったんちゃうかな」

門田の本領はフルスイングでの豪快なホームラン。ノムさんからは「大振りはやめろ」とネチネチ注意されたが、2年目からレギュラーの座を摑んだ門田は無視して自分のスタイルを貫いた。ノムさんとの戦いに、突然終焉が訪れたのは’77年のこと。愛人問題でノムさんが監督を解任されたのだ。

「これで自分の思い通りのバッティングができると、気持ちがラクになりましたワ。ただ、オッサンが”口撃”し続けてくれたから、負けん気の強いオレががんばり続けられたのは間違いない。’80年8月に西武に移ったオッサンが前人未到の3000試合出場を果たした時、オレは試合前に『恩返しをしたい』と言うたんです。その記念試合でオレは、キャッチャーマスクをかぶったあの人の目の前で2打席連続の特大ホームランを打った。3打席目のバッターボックスに入ると、オッサンが『恩返しとはこのことか。もうエエやろ』とボヤいた。それで3打席目は、2塁打にしといたりました」

入団当初、プレイングマネージャーだったノムさん(左)から打撃指導を受ける

人一倍練習熱心で、腕立て伏せは毎日200回。1kgの重いバットを使いホームランを量産した

悲劇のアキレス腱断裂
復活本塁打に男泣き!

ノムさんがチームを去ってからも、門田は順調にキャリアを重ねる。しかし、好事魔多し。’79年の春のキャンプで練習中に右足のアキレス腱を断裂してしまい、この年をほぼ棒に振ってしまったのだ。

「翌年の開幕戦は日生球場での近鉄戦でした。当時の広瀬叔功(よしのり)監督からは『カドは(スタメンから)外すぞ』と言われたんやけど、オレは頭を下げてお願いした。『使ってください。この試合をオレにください』と。もしこの試合でダメやったら代打でも、二軍に落とされてもかまわへんという覚悟でした。6番指名打者で出場し、相手はエースの鈴木啓示。第1打席で3ボールになると、次は直球が来るとヤマをはった。来たのは案の定、真ん中への速球やった。フルスイングした打球は、逆転のホームラン……。嬉しかったね。試合後は最寄りの駅から自宅まで、涙をボロボロ流し大声で『これが〜オトコの美学〜♪』なんてメチャクチャな歌をうたいながら帰ったのを覚えています。『あー、これでオレも復活できたんや』と、感無量やったんです」

門田は酒を飲んでも豪快だ。

「あれは東京遠征した時やったと思うけど、漫画家の水島新司先生(南海の大ファン)と食事をしたんです。ついつい酒が進み、ビールにウィスキーとチャンポンして、泥酔してもうた。水島先生からは『おいおい、大丈夫かい。明日の試合でヒット2本は打ってくれなきゃ困るよ』と言われた。気が大きくなっていたオレは『2本!? そんなんでエエんですか。3本は打ちますよ!』と調子のエエことを言うた記憶があります。翌日は日本ハムとのデーゲーム。二日酔いで、気持ち悪いやら吐き気がするやらで気分は最悪ですワ。でも酒が残っていたからか不思議と肩の力が抜け、フラフラになりながら3安打の猛打賞。水島先生との約束をなんとか守ることができホッとしましたが、試合後はすぐに宿舎に戻りバタンキューですワ」

熱い思いを試合にぶつけ続けた門田だが、いかんせんチームの人気がない。球場には、いつも閑古鳥が鳴いていた。

「観客席で寝とるヤツがおるわ、流しそうめんやっとる集団がおるわ、ムチャクチャでした。外野でイチャついとるアベックを見つけて『何しに来とんねん』と、そこに向けてホームランを打ち込んだこともあります。お客さんが少ないから、ヤジもよく響く。凡退すると『おう門田、根性入れて打てや!』なんていう罵声が飛んでくる。機嫌が悪い時は、こっちもムキになってヤジを飛ばしたサラリーマンに言い返します。『何が根性や。上司に叱られた腹いせに文句言うとるだけやろ。ボケ!』とね」

なかでも強烈だったのは、西鉄ライオンズのファンだったという。

「西鉄に勝とうもんなら大変やった。『おんどれら、なめくさりおって!』という怒号と一緒に、血の気の多いファンからセン抜きや石が飛んでくるんです。ある時、西鉄に勝ってベンチに帰ろうとすると、パラパラと小粒の硬いモノが降ってきた。首筋が切れて血まみれになり『なんやろ?』とよく見ると、一升ビンの割れた破片やったんです。ホームランを打った直後に外野の守備についたら、『なんばしよっと、門田!』とヤジがヒドかった。塀を乗り越えて、男のファンがグラウンドに入り込んで来たこともあります。オレに向かって突進してくるので、『刺される!』と思うて身構えました。すると『サインしてくれや!』と、色紙とペンをさし出してくるんです。拍子抜けしましたワ。審判はタイムをかけ、そのファンのために試合をわざわざ中断してくれた。オレはサインをして握手。その男が『ありがとな!』と言って塀を越え、観客席に戻ると試合再開です。おおらかな時代やったんですよ」

’70年7月、門田が入団した直後のロッテとの大乱闘。ロッテの濃人渉(のうにんわたる)監督が南海の選手に蹴りを入れている

’79年に右足アキレス腱を断裂。足に負担をかけないためにと翌年は全打席ホームラン狙いで41本塁打。2年後には44本塁打で本塁打王を獲得

ロッテ対南海戦が行われた、ガラガラの川崎球場で流しそうめん。中には焼き肉や麻雀をするファンもいた

内角攻めに怒りの報復
東尾の脚に打球直撃!

グラウンド内でも、ライバル投手との激しい攻防があった。阪急の山田久志、ロッテの村田兆治……。当時のパ・リーグには球史に名を残すような名投手が数多くいたのだ。

「西武の東尾修は、常に内角スレスレにビシビシ投げ込んでくるイヤらしいピッチャーやったね。オレも何度か当てられました。こっちも『お返ししたろう』と思って、東尾の太ももに打球を直撃させたことがあります」

鋭い打球を受け、東尾は「ギャッ!」と叫びその場に倒れ込む。東尾はなかなか起き上がれず試合が中断したため、門田はマウンドに行って声をかけた。

門田 おいトンビ(「東尾」を音読みした愛称)、大丈夫か?

東尾 何を言うてるんですか。バットのヘッドがボクのほうに向いてましたよ。狙う気満々やったじゃないですか。ホンマ、頼みますよ!

門田 わかっとったか。

東尾 わかりますよ。アタタタ……。

門田 これでおあいこや。当てたらアカンぞ。

東尾 わ、わかりました。

「それ以降、トンビがオレに当てたことは一度もありません」

門田が最も苦手としていたのが、阪急のエースでサブマリン投法の山田久志だ。

「オレのバッティングフォームはステップが広く、下からすくうような形になる。だからワンバウンドしそうな低目のボールでもホームランにできる反面、高目は苦手やったんです。山田の球は、アンダースローの地面スレスレからグ〜ンと浮き上がってくるから厄介でした。山田は年をとって、速球のスピードが落ちてからシンカーを覚えた。それでも、オレには絶対にシンカーを投げへんかったね。オレが低目を打つのがうまいとわかっとったからでしょう」

マサカリ投法のロッテ・村田兆治も門田を苦しめた投手の一人だ。

「あの独特のフォームを見るだけで憂うつやった。特にフォークは、低目を得意とするオレでも最初のうちはかすりもせんかった。どうやったら打てるやろうと、来る日も来る日も考えた。それで『次はフォーク』と読んだときは、めちゃくちゃ始動を遅くして上から思い切りシバくようにしました。バンカーショットを打つ感覚です。この打ち方やと、あれだけ苦しんだフォークを見事にホームランにできた。それ以来、村田はオレにフォークをほとんど投げへんようになったね。してやったりです」

味方にも豪傑はいた。オリックスに移籍した’89年9月のことだ。

「西宮球場でのダイエー戦でした。4点を追う3回裏に、反撃のホームランを打ったんです。笑顔でホームに戻ってくると、次の打者の身長2m、体重100㎏の大男ブーマーが高々と右手を上げて出迎えてくれた。オレも右手を上げてのハイタッチ。激痛が走ったのは次の瞬間やった。右肩が外れて脱臼してもうたんですワ。元々、脱臼癖があったんです。思わず『ア――ッ!』と叫んで、その場にうずくまってしまいました。すぐに病院に直行しましたが、医者は野球選手のケガを悪化させるのを恐れてか、肩に触ろうとしない。しびれを切らしたオレは『コラッ! オマエは医者やろ!!』と一喝して、自分で肩を元に戻したんです」

門田は相手がルーキーだろうと、闘争心を燃やした。’90年に史上最多の8球団から指名を受けた近鉄の野茂英雄には、生来の負けん気から「オレが最初にホームランを打ったる」と誓っていたという。

「野茂の投球ビデオを繰り返し見て研究しました。近所のゴルフ場で早朝からランニングを重ね、身体もしぼってな。開幕して野茂が最初に対戦したのは西武やった。『(西武のクリーンナップの)清原、秋山、デストラーデ、絶対に打つなよ』と祈っていました。その次がオレらオリックスやった。味方ではありましたが『(門田の前を打つ)松永、福良、ブーマー、打つなよ』とベンチから願っとった。願い通りに野茂からは誰もホームランを打てず、オレに打席が回ってきたんです。でも打席で見る野茂の剛速球は手元でホップするエグい軌道やった。トルネードでタイミングもとりづらく『こんなん打てんのか?』と思いましたが、速球一本にヤマをはってバットを一閃(いっせん)。するとライトへの大ホームランです。我ながら見事やったね。ちなみにオレの引退試合の相手投手も野茂で、速球をすべて空振りしての3球三振でした(笑)」

早稲田大からロッテに入団したクレバーな投手、小宮山悟も門田の洗礼を受けた一人だ。

「小宮山の記事を新聞で読んだら『大学もプロも一緒』なんて言うててね。生意気なコト言いおってと、腹が立った。ほなプロの打球を見せたろうやないかと思ってね。初対戦で思いきりピッチャー返ししたったんです。打球は小宮山の胸に当たり、レフトまで転がっていきました。『大丈夫か?』と声をかけましたが小宮山は無言。後で『もう(門田の)顔も見たくない』と話していたと、人づてに聞きました」

数々の伝説を残した門田がバットを置いたのは、’92年10月のことだ。フルスイングにこだわりつづけた漢の名刺には、今でも「本塁打一閃」という文字が刻まれている。

(文中敬称略)

’74年、高知県大方町で行われた春のキャンプでチームメイトとサウナに入り汗を流す

’88年の春のキャンプ。精神力を鍛えるために、広島県呉市の寺で早朝に座禅を組んだ

’89年9月に起きた悲劇。ブーマーとのハイタッチで脱臼し8試合の欠場を余儀なくされた

’92年10月に福岡の平和台球場で行われた引退試合。23年間で1万304回打席に立ち、2566本のヒットを放った

撮影:加藤 慶

 

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