「飛び降りたほうが楽だ」…データより人間力の野村克也監督「側近中の側近に漏らした」唯一の弱音 | FRIDAYデジタル

「飛び降りたほうが楽だ」…データより人間力の野村克也監督「側近中の側近に漏らした」唯一の弱音

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ヤクルトの監督時代に撮影したノムさん(右)と松井氏(画像:松井氏提供)
ヤクルトの監督時代に撮影したノムさん(右)と松井氏(画像:松井氏提供)

「野村さんが南海ホークスの選手兼監督となって、4年目の1973年のことです。チームは7年ぶりのリーグ優勝。優勝が決まった当日のバスの中、私は巨人の星の主題歌を歌い、サビの部分の『行け!行け!飛雄馬、どんと行け』を『行け!行け!克也』に変えたのです。すると、それまで黙って歌を聞いていた野村さんが突然『誰のことをいってんじゃい!』と返してきました。今となっては良い思い出です」

こう話すのは野村克也氏(享年84)と半世紀以上の付き合いがあり、ヤクルトの監督時代から数えて20年以上に渡って参謀役として、常に野村氏を支え続けてきた松井優典さん(72)だ。

プロ野球選手、監督として偉大な功績を残した野村氏が亡くなってから2月11日で丸3年が経った。側近中の側近として苦楽を共にしてきた松井さんが、野村氏との思い出を語る――。

南海ホークスの選手だった松井さんが、野村氏に初めて会ったのは1969年。その後、現役を引退した松井さんはヤクルトスワローズの球団マネージャーとして働いていたが、1989年10月にヤクルトの監督に就任した野村氏が二軍監督やチーフコーチに抜擢。4度のリーグ優勝と3度日本一に貢献した。その後も野村氏が阪神、楽天の監督を務めるごとに、常に松井さんはヘッドコーチとして野村氏を支える。野村野球の代名詞「ID野球」のキャッチフレーズを考えたのも松井さんだ。

「野村さんがヤクルト監督に就任した1年目。監督会議で発表する球団キャッチフレーズに何か良いフレーズはないかと聞かれ、会場へ向かう車の中で提案したのがデータを重視するという意味の『ID野球(インポートデータ)』でした。

しかし、野村さんから良い返事はもらえず『シンキングベースボール2で行く』と言いながら会場に入っていきました。野村さんは南海の選手兼監督時代、ヘッドコーチのブレイザーと『シンキングベースボール』を掲げていたので、その続きをやるという意味です。ところが会議終了後にどうなったかを聞くと『ID野球でいくわ』と言う。それが始まりでした」

「野球とは何か? 人生とは何か?」

ノムさんが眠る都内のお墓
ノムさんが眠る都内のお墓

野村氏が最初、首を縦に振らなかったのはワケがある。

「試合に勝つためにはデータも使うけれど、それ以前に選手個々人の考える力や忍耐力など内面の力が必要で、人間力の成長が強いチームを作るとの考えが野村さんの根底にあった。だから、戦術面での手段に過ぎない『ID野球』という言葉に特化するのは納得できなかったのでしょう」

そんな野村氏が、選手たちの人間力を高めるために独特のミーティングを行ったのは有名な話だ。

「毎年2月のキャンプが始まると、各チームではこんな作戦をしようなどといった確認事項をミーティングでやります。野村さんは一切そんな話はせず、まず『野球とは何か? 人生とは何か?』から始まる。もう選手はびっくりです。最初に出た言葉は『耳順』。孔子の言葉で、何事にも素直に耳を傾けて真実を理解するという意味です。私も教えてもらうまでは知らなかった。

そんな感じで、聞いたこともないような話が次々に飛び出します。次第に選手たちの目の色も変わり、知識を吸収しようと必死でノートを取るようになった。私は監督が黒板に書いた内容を消す役割でしたが、書き終えていない選手たちから『まだまだ!(消さないで)』とよくクレームを受けました。休日前を除いた夕食後の1時間がミーティングに当てられ、毎日そんな話が続くのです。野村さんは自ら研修会と呼んでいました」

キャンプ後半になってようやく野球の話も入るようになるが、そこでの内容も独自の分析に基づくものだった。

「野球のボールカウントは全部で12種類あります。それぞれのカウントを投手側と打者側から見て、有利、不利、互角の3つに分け、どのカウントでどういう心理が働くかを分析していました。野村さんは、野球は心理が大きく左右するスポーツと考えていたため、こうした話はよくされました。

データについては、あくまで心理を動かすための一つの方法でしかないと捉えていたのです。しかし野村さんが南海の選手兼監督時代に、人間力や心理の話をしているのは見たことがありません。南海を辞めてヤクルトの監督を引き受けるまで9年間の浪人生活を送っていましたが、その間にいろんな勉強をしたのだと思います」

弱音を吐かないノムさんが……

阪神監督時代のノムさん(中央。画像:AP/アフロ)
阪神監督時代のノムさん(中央。画像:AP/アフロ)

指揮官としてのコツをつかんだようにも見える野村氏だが、それでも上手くいくことばかりではなかった。ヤクルトでの手腕を買われて新たに監督に就任した阪神タイガースでは3年連続最下位。珍しく弱気になったこともあった。

「チームが勝てない時、私に『泊まっているホテルから飛び降りたほうが楽だと思ったよ』と話したことがありました。普段、弱音は吐かない人なのでいまでも覚えています。ヤクルトではいろいろな基礎が出来ていたから良い成果が出たけど、阪神はそこが足りずもう少し時間がかかる環境だったんです。当時、野村さんを助けられなかった私も大いに責任を感じています」

沙知代夫人の脱税容疑での逮捕を受けて2001年に阪神の監督を辞任。その後、社会人野球シダックスの監督を経て2005年10月から楽天イーグルスの監督を4シーズン務める。それが最後のユニフォーム姿になるが、このころの野村氏は一層円熟味を増していた。

「楽天時代の野村さんは、念願の専任監督に就任して張り切っていたヤクルト時代とはかなり変化していました。ひたすら選手を引っ張っていくだけではなく、一人一人をじっくりと観察してそれぞれの性格に応じた育成をする。監督として周囲とのバランスを取ることも忘れませんでした。

中日からオリックスを経て移籍し、楽天で再び主力選手として活躍した山崎武司選手も野村さんに育てられた一人です。ヤクルト時代の野村さんを知る選手たちは、考えられないほど変わったとよく話していました」

野村氏を長年身近で見てきた松井さんが一番学んだことは、着眼点だと言う。

「物事の本質を見るためには、どこに着眼すればよいのかを分かっていました。監督として作戦を成功させるためには、先方の出方や考え方を探る必要があります。

そのために野村さんは、相手の目線の使い方やちょっとした動きなど、我々が見過ごしてしまうようなわずかな変化さえよく観察。そこから巧みに相手心理を読んでいくのです。今では球界の常識になっていることでも、最初に気が付いたのは野村さんだったということがあります」

人間力を高める。本質を見据える―。野村氏が選手たちに伝え続けた言葉の持つ意味は、何も野球だけに留まらない。しっかりと生きる上でも十分、示唆に富む教えだ。

70年代、南海時代のノムさん(画像:アフロ)
70年代、南海時代のノムさん(画像:アフロ)
70年代、南海時代のノムさん(画像:アフロ)
70年代、南海時代のノムさん(画像:アフロ)
04年、社会人シダックス監督時代のノムさん
04年、社会人シダックス監督時代のノムさん
  • 取材・文形山昌由(ジャーナリスト)写真松井氏提供 アフロ

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