内海哲也 泣き虫エースが「巨人放出」の真相を明かす
移籍の通告を受けたとき、妻は言葉を失い、自分は球団事務所で号泣
衝撃の発表だった。FAで巨人入りした炭谷銀仁朗の人的補償として、長年ジャイアンツ投手陣を支えた内海哲也の西武移籍が決まったのだ。引退を覚悟したどん底期から巨人を去る寂しさまで、元エースがすべてを語る。
「西武への移籍を告げられたのは、発表される(昨年12月20日)前日の正午頃のことです。都内で自主トレをしている時に、球団職員の方から『ちょっと話したいことがある』とLINEが入った。うすうす移籍する予感はありました。直接会うと『まぁ、そういうことだから』みたいな感じで言われて……。『内海は直接会って伝えなければいけない大切な選手だと思った』とも言われました」
FAで巨人に入団した炭谷銀仁朗(31)の人的補償として今季、西武に移籍した内海哲也(36)が話す。
内海は敦賀気比高校時代(’00年)に、オリックスからのドラフト1位指名を拒否。東京ガスに入社し、’03年に自由獲得枠で大ファンだった巨人に入団した。’11年、’12年と2年連続で最多勝を獲得するなど、エースとして15年間にわたりジャイアンツ投手陣を支えてきた功労者。巨人は、そんな内海をFAによる人的補償のプロテクトをせず放出したのだ。
「自宅で移籍の話を伝えると、妻(聡子夫人)は言葉を失ってしまいました。(野上亮磨(りょうま)がFAで西武から移籍した)2年前に、『プロテクトに漏れて出ることになるかもしれない』と言っていたんですがね。妻も巨人への愛着が強いので、現実になるとショックが大きかったのでしょう。『もうジャイアンツでやりたくてもムリだから、前向きに考えよう』と話をしました。移籍が発表された当日に巨人の球団事務所にお別れの挨拶に行くと、多くの方に集まっていただいて……。悔しさというより長年プレーした球団を去る寂しさで、涙がボロボロこぼれ止まらなくなってしまった……。おかげで、うまく挨拶できませんでした」
頭をよぎる「引退」の2文字
泣き虫エースは’13年に13勝をあげて以来、2ケタ勝利から遠ざかっている。身の引き時を考えたこともあるという。
「2~3年前のシーズンに二軍でくすぶっていた時は、『もう終わりかな』という気持ちでしたから。練習していても『引退』の2文字が何度も頭をよぎるんです。18勝をあげた時(’11年)のイメージを思い浮かべても、以前と違い身体が動かない。ただ、家に帰って4人の子どもたちの寝顔を見て『この子たちのためにもカッコいいパパでありたい』と、なんとか自分を奮い立たせていました」
内海は個人トレーナーの保田貴史氏の指導のもと、年齢により劣化した下半身の強化に取り組む。練習ではバドミントンやラグビー、45㎏の重りを載せたソリを綱で引っ張るメニューも採用。ランニングの一日平均距離は10㎞におよんだ。
「少しずつ『まだできる』という実感がわいてきました。確信を持てたのは昨年7月のDeNA戦で、4年ぶりに完封した時です。練習はウソをつかないなと。ボクが若い時に、落ち目になった選手が練習を疎(おろそ)かにするのを見てイヤな気持ちになったことがあるんです。これまでは苦しむ姿を人に見られるのを嫌っていましたが、そんな悠長なことを言っていられない。若手がボクの背中を見ていると思い、西武でも緊張感を持って練習します」
新しい背番号は27に決まった。
「巨人の時は26でしたから、一つ成長するという意味で27にしてもらいました。加入したからには、戦力にならないと意味がありません。1年間ローテーションを守りたい。そうすれば、結果はおのずとついてくると思います」
西武への移籍発表直後、内海は「一回りも二回りも大きくなって、ジャイアンツに戻ってこられるようにしたい」とコメントしている。最後にこの発言について問うと、キッパリと答えた。
「今は巨人のことをまったく考えていません。とにかく西武の主力投手として、1年間活躍することが目標です」
ジャイアンツの元エースが、ライオンズでの完全復活を誓う。
- 撮影:會田園