オリンピック大工事1964 建設中の首都高や東京駅の写真を発掘
〔フォトルポルタージュ〕[首都高環状線][日本橋川][東京駅][浜松町駅][代々木第一体育館]ほか
首都高都心環状線工事風景
東銀座付近で首都高都心環状線を建設している様子。京橋‐芝浦間が首都高最初の区間として1962年に開通した。左のビルには1961年に封切られた映画『荒野の七人』の垂れ幕が ©首都高速道路
2019
現在の同所付近。奥に見える新橋演舞場は、現在は高層ビルとなり歌舞伎公演が多い 撮影:濱﨑慎治
東京の貌は五輪で変わる
「2020年のオリンピック開催まで2年を切ったこともあり、土木学会では『TOKYO DOBOKU FROM―1964―TO』と題した展覧会を企画。建設関係各所に呼びかけて前回東京五輪前後に作られた土木建造物の歴史資料を集めました。道路、交通路、巨大競技場とジャンルこそ違え、東京五輪を目指して作られた建造物は膨大で、各社に眠っていた資料や写真を発掘するのに大変な手間と手続きがかかりました」(土木学会広報センター・前田利光氏)
それがここに紹介した貴重な写真だ。
東京五輪の開会式が行われたのは1964(昭和39)年10月10日。このオリンピックこそが、太平洋戦争で焼け野原になった東京という町を一変させたのだ。
五輪開催前の東京には、まだ高速道路も新幹線もなかった。都心にも高層と呼べるビルはほぼなく、羽田空港から都心へ向かうにはバスに揺られなければならない。そもそも空港を使う人はまだ少数だった。だが’59年5月に東京でのオリンピック開催が決定。5年後、この一大イベントを観戦に訪れる世界の人々を迎えるため、東京中で一斉に大工事が始まったのだ。
そして’20年の東京オリンピックにむけて、今また東京は変わろうとしている。一から建造物を作り上げた前回の礎(いしずえ)を生かしながら、さらに新しい都市へ。その経過を写真で振り返ってみよう。
首都高1号線羽田トンネル工事。羽田トンネルは東京五輪開催2ヵ月前の1964年8月に開通した ©首都高速道路
東京モノレールは路線の大部分が京浜運河上に。滑走路近くでは川底に巨大な箱を埋めトンネルにした ©東京モノレール
代々木第一体育館を建設中の作業員。最後の2ヵ月は24時間体制で五輪開幕39日前に竣工した
交通激化する都心の国道
新橋駅近くを通る第一京浜国道付近。自動車交通量が激増し慢性渋滞を引き起こしていた。1964年東京五輪の頃、道はまだ十分舗装されておらず、マラソン競技では土埃が舞った
2019
アスファルト化された現在の道路。灼熱の8月に行われる2020年五輪のため、遮熱性舗装の計画もある 撮影:濱﨑慎治
首都高高架工事作業中の日本橋川
首都高建設を東京五輪までに間に合わせるため、用地買収交渉の必要がなかった川の上を活用。だが、全国の道路起点である日本橋に高架がかけられるハメに
2019
現在の日本橋の景観。地域住民からは高速道路の地下トンネル化を望む要望書が東京都に提出されている 撮影:濱﨑慎治
新幹線建設中の東京駅
右手前が東海道新幹線のための建設現場。左側に東京駅の旧駅舎が見える。新幹線の開通は東京五輪開始直前の1964年10月1日。開業当時の速度は時速200㎞だった ©鉄道博物館
2019
現在の東海道新幹線の運行速度は時速285㎞。東北新幹線では320㎞まで向上している 撮影:濱﨑慎治
開通まもないモノレール浜松町駅
モノレールの開通は1964年9月17日。開業当初は羽田空港‐浜松町間に途中駅がなく、国鉄初乗り10円のところ片道250円と高額だったこともあり利用客はわずかだった ©東京モノレール
2019
再開発が進む浜松町駅。またモノレールは新橋そして東京駅への延伸計画が検討されている 撮影:濱﨑慎治
建設中の国立代々木第一体育館
丹下健三による戦後日本の代表的名建築。第一体育館の屋根は2本の主塔で支えられた吊り屋根方式をとっている。同地には戦後占領軍の宿舎「ワシントンハイツ」があり、返還交渉の遅延から最後は突貫工事になった
2019
現在、改修作業中の第一体育館。背景に当時なかった新宿副都心の高層ビル群が 撮影:濱﨑慎治
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