天皇の棺を担ぐ人びと「八瀬童子」700年の秘密に迫る
京の都を守る「鬼門」に位置する比叡山延暦寺。その麓(ふもと)にある八瀬(やせ)(京都市左京区)の地は天皇家にとって特別な意味を持っている。
この集落には「八瀬童子(やせどうじ)」と呼ばれる人々が住む。彼らの祖先について、こんな言い伝えがある。鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が、足利尊氏と争って比叡山に逃れた時、その御輿(みこし)を担いだというのだ。
「日本各地の村には、その集落ごとの言い伝えが残っています。それらの多くは針小棒大な伝説ですが、八瀬には言い伝えがただの伝説ではないと学術的に信じうる歴史資料が多数残されている。
建武3(1336)年、後醍醐天皇が実際に八瀬童子に対して功績を認めて課役免除の特権を保障した綸旨(りんじ)(=天皇の公文書)案に始まり、明治天皇に至る25通もの歴代天皇の綸旨が現存しています。神社仏閣や大名家でもないただの村落に、これだけ代々の天皇の公文書が残されているなど、他所にはありえません。そして、実際600年以上の間、八瀬童子は天皇家に鮎、栗、栢(かしわ)を献上し、時に御所の輿丁(よちょう)(輿を担ぐ雑役)を務めてきた。八瀬は天皇との特別なつながりを認められ、租税免除の特権を有していました。それは、なんと昭和20年の敗戦時まで続いていたのです」
京都市歴史資料館に寄託された「八瀬童子関係資料」(重要文化財)を研究している同館主任研究員・宇野日出生(ひでお)氏はこう語る。
「昭和さんの大喪の礼に奉仕」
明治維新を経て、天皇は東京へ去った。だが、ひとつだけ八瀬童子には役割が残った。それは、天皇が亡くなった時、大喪の礼で棺(ひつぎ)を、そして御位(みくらい)に上る大礼では輿を担ぐという役である。
明治、大正、二代の天皇が崩御した折、八瀬童子は大挙上京して棺を担いだ。だが、平成元年、昭和天皇の大喪の礼では、棺は自動車で武蔵野陵に運ばれた。葬送の一部では、古式装束を着た皇宮護衛官51人が棺を担ぎ、八瀬童子は宮内庁より「霊柩奉遷(れいきゅうほうせん)の補助者」と指定されて7名だけがその任にあたった。
「昭和さんの大喪の礼の時、上京してご奉仕した最後の一人が私です。当時の会長が参列奉仕、そして6人が霊柩補助をしました。私は補助者の一人として、新宿御苑で侍従職の方と一緒にモーニングコート姿で、轜車(じしゃ)(霊柩車)から葱花輦(そうかれん)(輿)に棺を移したんです。
私たちは天皇と皇后がお亡くなりになった時と位につかれた時には式に参加しますので、香淳皇后さんの大喪に出た者はまだ残っています」
こう明かすのは、「八瀬童子会」会長・玉川勝太郎氏(77)である。昭和3年に設立された「八瀬童子会」は、誰でも入れる同好会ではなく、現在でも厳しい規律が守られている。
「八瀬童子会には、いま106人がいます。会には細かい約款があるのですが、その一つに八瀬童子は、先祖代々八瀬に暮らしてきた家系で家督相続した戸主がなるという条項がある。長寿のご時世なので、たとえば戸主が80〜90歳という場合、ずっとここで生まれ育った50〜60歳の息子が八瀬童子になれていない。この約款は見直しを検討しているところです」
八瀬童子の人数は、数百年の間、ほぼ100人前後で変わっていないという。前出・宇野氏が説明する。
「税免除という特権を持った特別な存在である以上、かつては他集落の人間が流入することは許されませんでした。従って婚姻もほぼ村内で行われ、住民の多くが姻戚関係で結ばれていた。もちろん戦後は、他所から嫁いで来る人もいます」
美智子皇后の歌が刻まれて
八瀬の人々は今も皇室との繫がりを大切にしている。玉川会長が言う。
「平素は、天皇皇后さまが京都御所にお泊まりになる時に、代表者が出迎えています。また天皇皇后、東宮家の誕生日には、私が祝電を打ちます。雅子さまには以前お見舞いの電報も打っていました。侍従さんを通じてですが、皇后さまなどからはお礼のお言葉がまいります。お代替わりで皇嗣(こうし)殿下になったら、秋篠宮さんのところにも打つようになるでしょう。
今回の大礼(大嘗祭)でも、ご奉仕願いを宮内庁に提出して参加交渉しています。ただ、東京の宮内庁職員は人事異動を繰り返しているので、前回の大礼で八瀬童子が果たした役割について引き継ぎがされていませんでした。一から説明しているので時間がかかっているのです。
天皇陛下に対して”ご奉仕”する精神、これこそが先祖代々伝わってきたことです。同時にそれが八瀬の人間の誇りでもあります。役割は変わっても、この気持ちは変わりません。
少子化の波は八瀬にも及んでいますが、ここで生まれ育った人間は、あまり外に出ていかない。親と同居はせずとも八瀬に家を建てて住んでいる若者も多いんです。八瀬童子はこれからも続いていくでしょう。私はそう確信しています」
八瀬の集落には、美智子皇后の歌が刻まれた歌碑がある。
「大君の 御幸(みゆき)祝ふと 八瀬童子 踊りくれたり 月若き夜に」
平成16年8月。天皇皇后が京都に行幸したある夜、京都御所に招かれた八瀬童子たちは、御所の前庭で八瀬に伝わる踊りを両陛下に披露したのだという。
〈この御歌はその夜三日月の光のもとで踊りをご覧になり更に踊りの人々と共に三日月を仰がれた喜びをお詠みになったものであります〉
横に添えられた説明文には、こうある。
ひっそりと、だがたしかに八瀬童子は今も深く天皇家と繫がっているのだ。
- 写真:福森クニヒロ