ガンダム40周年 天才モデラーが社員として創ったガンプラとは? | FRIDAYデジタル

ガンダム40周年 天才モデラーが社員として創ったガンプラとは?

「川口名人」が社員になって苦闘! 「マスターグレード」誕生秘話&世界に拡がるガンプラ

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「ガンダムベース東京」(東京・お台場)でインタビューに答えてくれた川口名人。各種イベントでは、ガンプラ製作の実演を披露することもあるので、名人の技を自分の目で見てみたい人はチェックしてみては。(写真:竹内みちまろ)
「ガンダムベース東京」(東京・お台場)でインタビューに答えてくれた川口名人。各種イベントでは、ガンプラ製作の実演を披露することもあるので、名人の技を自分の目で見てみたい人はチェックしてみては。(写真:竹内みちまろ)
MG 1/100 高機動型ザク“サイコ・ザク” Ver.Ka(GUNDAM THUNDERBOLT版) MG Ver.Ka(マスターグレード バージョンカトキ/デザイナー カトキ・ハジメ氏がプロデュースするマスターグレード ブランド)
MG 1/100 高機動型ザク“サイコ・ザク” Ver.Ka(GUNDAM THUNDERBOLT版) MG Ver.Ka(マスターグレード バージョンカトキ/デザイナー カトキ・ハジメ氏がプロデュースするマスターグレード ブランド)

「ガンプラ界の神様」「川口名人」として知られる川口克己氏(57歳、1961年12月10日生)。幼少期からプラモデルに親しみ、ガンプラの発売前に、手作りで完成させた「シャア専用ザク」(1/100)の模型が模型専門誌「月刊Hobby JAPAN」で紹介された。「ガンダム」に出会った高校時代、モデラーとして大活躍した大学生時代を経て、現在は、バンダイの社員としてガンプラの魅力を世界に伝えている。

本インタビューではバンダイ入社後にメーカーの社員としてガンプラとどのように関わってきたのか聞いた。“神様”は「ガンプラの魅力とは?」という直球の質問にも丁寧に答えてくれている。

→【前編】ガンダム40周年 最初はすべて自作!「神様」が語るガンプラ秘史 を読む

■バンダイの入社試験 面接ではモデラーの正体は明かさず

——大学卒業後、1985年にバンダイの社員となりました。

川口名人:模型の業界は年に2回、見本市があります。見本市では、商品として大量生産するための金型がまだない段階で、プラモデルの試作品を展示することもあり、ガンプラの試作品の製作依頼が、僕たちに来ていました。なので、大学生のときに、バンダイ静岡工場の人たちと繋がりがあったのです。大学4年生のときに、バンダイの工場の人から、「川口君、進路どうするの?」と尋ねられました。進路はよく考えていなかったのですが、ただ、模型と何らかの形で関わっていきたい気持ちがありました。それで「もし就職するんだったら、バンダイとかに入れたらいいなと思います」と答えました。そうしたら、「入社したい気持ちがあるなら受けてみなよ。静岡工場に履歴書など書類一式を提出してくれたら、東京の本社に回しておくから」と言ってもらえました。バンダイは東京本社での一括採用だったのですが、工場に書類を持って行ったら、そこでなんとなく工場長や、開発部長とかと面接っぽい話になって、「本社からの連絡を待ってくれ」と言われました。

しばらくして東京本社から入社試験の連絡がきました。筆記試験は通常通り受けて、面接も何回かやりました。「バンダイはマニアは採用しない」と聞いていたので、本社の面接では、自分から模型の話は一切しませんでした。本社の人はもちろん僕の経歴は知っていたと思いますが、面接官からも模型の話は出なかったんです。同期入社は40人くらいいたのですが、川口が学生時代モデラーをやってたというのを知ってた人は2、3人くらいしかいませんでした。

入社後、半年ほどは研修などをして、その後ホビー事業部に配属、「修行してこい」ということで営業を半年ほどやり、その後ホビー事業部の企画開発に移りました。開発では、「機動戦士ガンダムZZ(ダブルゼータ)」(1986年3月〜1987年1月/以下、「ZZ」)のプラモデルの開発を担当しましたが、当時「やはり人事も僕の経歴を知っていたのだな」とは思いました。社内外の人たちは僕が入社以来ずっとホビー事業部にいると思われている方も多いのですが通算して約6年間はホビーに関わらない部署にもいましたが、残りはホビーに関わる仕事をしています。

■社員になって様々な壁に直面 「マスターグレード」で理想を実現

——メーカーの社員として、ガンプラと、どう関わってきたのでしょう。

川口名人:「ZZ」のときは、ガンプラはまだ、有機溶剤を使った接着剤を使い、同じく有機溶剤を使った塗料で塗装する時代でした。今は、接着剤なしで組み立てられ、多色成形といって部品ごとに最初から色が付いています。僕が入社する少し前に、バンダイ静岡工場には多色成形の機械が導入されていて、何をどこまでできるのかを試している段階でした。「ZZ」を担当した後異動になりホビー事業部を5年ほど離れ、戻ってきたときは、接着剤と塗料を使わなくても組み立てられる、という今のプラモデルのスタンダードに必要な生産技術が整っていました。

モデラーだったときは、趣味として自由にやっていたのですが、社員として現場で関わるようになると、コスト、生産技術、量産性など様々な問題に直面しました。また、ガンプラは、デザイン担当、設計担当、金型担当、生産担当をはじめ多くの人が関わって完成します。企画開発担当が「こういうことをやりたい」と思っても、色々な制約をクリアーしなければなりません。完成した商品には、理想としたイメージとは違っている部分がどうしても生じてきます。それが入社してから10年くらい続いていました。

そして、ガンダム15周年のときに、「機動武闘伝Gガンダム」(1994年4月〜1995年3月/以下、「Gガンダム」)のテレビ放送がありました。

【「機動武闘伝Gガンダム」】
世界の格闘家が、「モビルファイター」と呼ばれるロボットを使用して格闘技大会「ガンダムファイト」で戦うという、他のガンダムシリーズとは一線を画す作品。

川口名人:「Gガンダム」のときに、それまでのガンプラファンから「あんなのガンダムじゃねえ」との声があがり、スケールモデルとキャラクターモデルのときと同じような構図が生まれました(笑)。ただ、「Gガンダム」を観て、それまでガンダムにあまり興味を持ってくれていなかった小学校や幼稚園くらいの子どもたちが、「ガンダム、おもしろい」と言ってくれ、裾野が広がったのです。

「あんなのガンダムじゃねえ」と不満を持っていた人も途中から戻ってきてくれましたが、「Gガンダム」の商品展開に関しては、「『Gガンダム』でガンダムを好きになってくれたお客さんには『Gガンダム』のプラモデルを買って頂けたらいいよね」との方針で取り組んでいました。

その「Gガンダム」で、売り上げが期待値を上回ったのです。それで、「ご褒美だ。川口、やりたいものをやってみろ」と、上司や先輩方に言って頂きました。ちょうど入社10年目くらいで、「新機動戦記ガンダムW(ウィング)」(1995年4月7日〜1996年3月29日/以下、「W」)の年になっていたのですが、「だったら、ガッツリしたプラモデルとしてのガンプラを作りたい」と思い、「マスターグレード」という、精巧な内部フレームを核として、ベストプロポーションと自由自在な可動ギミックを追求したガンプラを企画しました。

——ガンプラ界は、どんな情勢だったのですか?

川口名人:1983年にファミコン(任天堂のゲーム機「ファミリーコンピュータ」)が発売され、数年してファミコンブームが起きました(大ヒットしたソフト「スーパーマリオブラザーズ」は1985年発売)。ファミコンブームに押される形で、それまでプラモデルを作っていた人が離れていきました。新しい人にプラモデルを作ってもらおうと試行錯誤する中で、より少ないパーツで、色分けもできており、接着剤を使わなくても、塗装しなくても完成するという流れが続いていました。

ただ、それだと、「10年以上プラモデルが好きだ」という人には物足りません。それまで、プラモデルには、セグメント(購入対象者ごとに区分けした商品展開)という考え方はなかったのですが、「マスターグレード」は、部品の数を3倍ほどにして、内部にメカニックがあって、その上からフレームの外装を付けるという、手間もかかるし、作るのに時間を要する仕様にしました。プラモデルは基本的に、取扱説明書の通りに組み立てて頂ければ完成するのですが、「マスターグレード」は、初めてプラモデルを作る人にとっては、とても難易度が高いものとなりました。

「マスターグレード」は夏場の発売(1995年7月)でした。イベントなどもやり、僕も含めて担当者全員が発売日に店頭で様子を見守ったのですが、「久しぶりに、ガンプラで行列ができた!」と喜び合いました。「プラモデルを好きで作っていた人にとって、ようやく思いに近いものが出た」という評価をして頂き、「やはり、みんな待ち望んでくれていたのだな」と感じました。それまでは、自分のやりたいことを100%実現することはできていなかったのですが、ようやく、100%に近いことができたなと思いました。

■大人も女の子も取り込む マニア向け展開も

——来年は「ガンプラ」40周年ですが、これまでの歩みを教えてください。

川口名人:ガンプラブーム以降は、「プラモデルに興味がなかった人に何とか興味を持ってもらおう」という時期がありました。「W」以降は、わりと色々な人がガンプラに興味を持ってくれるようになりました。アメリカから「スポーン」というアメコミのキャラクターフィギュアが入ってきて(「スポーン」はアメリカで1992年に出版)、日本全国でフィギュアブームが起こりプラモデルも含めキャラクターの立体物は「フィギュア」と総称されました。多くの人が(フィギュアメーカーの)海洋堂さんが作られているミニチュアフィギュアにも興味を持ち始めました。現在は、プラモデルを含めたキャラクターの立体物に対して、「子どものおもちゃだ」という感覚は、すでになくなっています。

キャラクターの立体物は歴史的に男の子の趣味というイメージが強いのですが、フィギュアブームが起こったあたりから、プラモデルを作る女の子も増えました。ただ、女の子の場合は、ロボットはパイロットのキャラクターとセットになるので、「W」のときはキャラクターが好きでプラモデルを作ってくれた女の子でも、「W」に続くタイトルではプラモデルを作ってくれなくなり、「機動戦士ガンダムSEED」(2002年10月〜2003年9月)が放送されるとまたキャラクターを好きになってくれて、「W」のときにプラモデルを作った経験がある女の子が再び作ってくれるという現象が起こります。市場的にも、ガンプラは男の子の趣味という枠を超えて広がっています。

技術という点では、プラモデルは新製品を出していかないとノウハウが蓄積されないのですが、既存のラインナップにも、“もっと作りやすく”という改良を加えています。同じ基本フォーマットで量産されているプラモデルでも、1年前に生産された商品と、直近に発売された新製品とでは、ユーザーが組み立てたときの感覚が違ったものになります。そういう意味では、ガンプラは1年ごとに進化しているといえます。

先程、セグメントの話がありましたが、ライトユーザーとヘビーユーザーという点からみると、今年がガンダム放送開始から40年になりますので、アニバーサリー展開として、色々なタイトルがテレビ放送され、かつ同じ年度内に劇場版が公開されるなど、ライトユーザー向けのタイトル展開と、ヘビーユーザー向けのタイトルの展開が併走している形になっています。ガンプラもその展開に合わせて、それぞれの商品を発売しています。

流通面では、従来は、「これ売れるのかな?」と、商品として確信が持てなかったプラモデルは、なかなか発売には至らなかったのですが、今は、バンダイが運営するガンプラの公式総合施設「THE GUNDAM BASE TOKYO(ガンダムベース東京)」(東京・お台場/2017年8月オープン)でガンプラの展示・販売を行っています。「プレミアムバンダイ」というホビーの直販オンラインショップの中に「ガンダムベース東京」のオンラインショップ「ガンダムベースオンラインショップ」(2018年夏にオープン)もあります。「ガンダムベース東京」と「ガンダムベースオンラインショップ」では、大量販売が望めそうにないコアファン向けのガンプラも、お値段は少々お高くなってしまうのですが、販売しています。

現在は、売り方も含めて、ガンプラを取り巻く現実が様々な点で変わってきているんです。

■世界に広がるガンプラ、外国人モデラーの作品に驚嘆!

——THE GUNDAM BASEは、韓国、台湾、中国にもありますね。ガンプラの世界展開はどのような状況でしょう?

川口名人:「W」のころから、海外でのガンプラ販売が本格化しており、特に、アジア圏で力を入れてきました。アジアの方たちが喜んでくれるコンテンツも提供しようということで、SDガンダムで三国志をテーマにした作品を展開しました。ガンダムは日本発のコンテンツですが、中国系の人にとっては、三国志をテーマにすることで、“私たちのガンダム”になるのですね。

【「SDガンダム」】
ガンダムシリーズのロボットやキャラクターを、頭が大きく手足が短いという2頭身=SD(スーパー・ディフォルメ)で表現した作品群。1985年にガシャポン(カプセル式自動販売機)で売られる商品として登場。可愛らしさと豊富なバリエーション、希少性やコレクション性などから小中学生の間で大流行し、それまでのガンダムファン以外の層にも人気が広がった。「ボンボン」では、SDガンダムシリーズとして、「超戦士ガンダム野郎(ハイパーせんしガンダムボーイ)」(1989年1月号〜1993年11月号/やまと虹一&クラフト団)、「SDガンダム三国伝 風雲豪傑編」(2007年7月号〜2007年12月号/ときた洸一)などが連載された。

川口名人:また、2019年で9回目となる公式ガンプラ作品コンテスト「ガンプラビルダーズワールドカップ(GUNPLA BUILDERS WORLD CUP)」(GBWC)を毎年開催しています。50立方センチメートル以内という条件のもと、単体でも、ジオラマでもよいので、ガンダム作品を自由に作って頂き、技巧や発想を競います。2018年は、16の国と地域のチャンピオンの作品の中から、日本の方の作品がオープンコースで世界一に輝きました(ジュニアコース優勝は、インドネシア代表作品)。

GBWCでは、2015年に、タイの方の作品がオープンコースで優勝しました。「2体のガンダムが戦う姿を巨大な木彫りの彫刻で創っている途中のアトリエの様子」を表現した作品でした。台座の下から巨大彫刻を見上げる小さな人間や、細かな設計図や道具まで、すべて自作で創られています。タイは、駐在で住んでいる日本人も多く、日本のアニメは早くから放送されているのですが、この作品を観たときは、「こんなものを作る人がいるんだ」とびっくりしました。

■「プラモデルは死ぬまで離さない」

——ガンプラの魅力は、どこにあるのですか?

川口名人:僕個人は、ガンダムにはまったきっかけはモビルスーツです。モビルスーツは兵器なのですが、ただ、そこには操縦している人間がいました。同じモビルスーツでも、シャアやランバ・ラルが乗るだけで、ぜんぜん違うものになります。最初の「F1ブーム」のときに、「中島悟さんがいるから、テレビでF1中継を観る。残念ながら今回も入賞できなかったけど、中島悟さんが乗っているから、私は黄色いロータスのプラモデルを買う」という現象が起きました。小学生のころ、戦記物の本を一生懸命、読んでいたのですが、ゼロ戦なら撃墜王と呼ばれた坂井三郎さんなどのパイロットの方がいました。

ガンダムを観て、“パイロットに感情移入する心と、モビルスーツをかっこいいと思う心が合わさり、ガンプラを手にする”というのが、ガンプラを楽しんでいる人のマインドのひとつだと思います。それが一番わかり易いのが「Gガンダム」でしょう。「Gガンダム」には、色々な国の人が登場し、セリフの中でも「人機一体」という言葉が使われています。初期のガンプラでは、例えば「シャア専用ザク」なら箱にパイロットであるシャアの絵が印刷されていました。わざわざ、「このキットにシャアはついていません。」という注意書きを載せてまでパイロットの絵柄をモビルスーツと一緒に印刷していたのも、同じことだろうと思います。

プラモデルの魅力という点でいえば、「作る楽しさ」という言葉があります。ただ、僕は、「作る楽しさ」以前に、「妄想する楽しさ」があると思っています。同じモビルスーツだったとしても、サイド7にあった新品のガンダムと、地球に下りてランバ・ラルと戦ったときのガンダムと、ジオンの宇宙要塞「ア・バオア・クー」でシャアと戦ったときのガンダムでは、まったく違うものになります。ランバ・ラルと戦ったときなど、アムロ君は、ガンダムを砂漠に埋めちゃいましたから(笑)。そのときのガンダムを表現しようと思ったら、「砂嵐で傷だらけになっているだろうし」などと考えます。そういったイメージを膨らませて、それぞれの表現を立体として完成させることができます。その一連のプロセスが僕にとってはたまらなく楽しいんです。

ガンプラは、基本的には、取扱説明書に従って作って頂ければ、誰でもまったく同じものを完成させられるようになっています。そこれから踏み込んで頂ければ、「自分だけのガンダム」を完成させるために、さまざまな工夫をすることができます。今は、材料や道具でも、いいものがたくさんありますので、「妄想する楽しさ」を存分に味わって頂けたら幸いです。

——最後に、川口名人の“ガンプラ卒業”はいつですか?

川口名人:僕は、「Z」の年からバンダイの社員をしています。最初の「ガンダム」以外は、仕事を通して、ガンダムとずっと関わっていますが、ガンプラの仕事以外でも模型やフィギュアのイベントに行くことがあります。先日も、ワンフェス(模型や造形のイベント「ワンダーフェスティバル2019」/2019年2月10日/千葉・幕張メッセ)に行ったのですが、見て回っていたら、プラモデルを作りたくなりました。

僕は、本当は飽き性なのです。なので、ガンダムだけを作っていたら、ガンダム20周年を迎える前に、ガンプラ作りをやめていたかもしれません。ただ、ガンプラの他に、戦車も作って、飛行機も作っています。作るものが変わると、作り方やアプローチがぜんぜん違ってくるので、そこで切り替えができるのですね。ガンプラを作って、戦車を作って、飛行機を作って、ぐるっと1周回ってまたガンプラに戻ってくるというサイクルがこれまでずっと続いています。なので、プラモデルは死ぬまで離さないと思います。

***

川口名人は、現在は、「ガンプラビルダーズワールドカップ」の審査員として世界中を駆け回り、「ガンダムベース東京」にある専用スタジオからガンプラの魅力を伝えるWEB放送に出演し、各地で開催されるイベントでガンプラ制作の実演をしたりと、大忙しの毎日を送っている。「プラモデルは死ぬまで離さない」という川口名人だが、ガンプラ50周年、60周年に向けて、さらにガンプラの魅力を世界に伝えて行くだろう。

→【前編】ガンダム40周年 最初はすべて自作!「神様」が語るガンプラ秘史 を読む

【プロフィール】川口克己(57歳、1961年12月10日生、福岡県北九州市出身)。幼少期からプラモデルに親しみ、高校3年生のときにテレビアニメ「機動戦士ガンダム」と出会う。ガンプラ発売前に、模型専門誌「月刊Hobby JAPAN」に、完全手作りで完成させた「シャア専用ザク」(1/100)の模型が掲載され反響を呼ぶ。法政大学進学後は、少年向けマンガ雑誌「コミックボンボン」(講談社)連載のガンプラマンガ『プラモ狂四郎』(やまと虹一&クラフト団)へのアイデア提供や、各種プラモデル企画に参加し活躍。1985年にバンダイ入社。長くホビーに関わり、ガンプラのマニア向けラインナップ「マスターグレード」を提案する。現在は、株式会社BANDAI SPIRITSのホビー事業部・ダイレクト販売チームに所属し、ガンプラの魅力を伝えている。

「ガンダムベース東京」(東京・お台場)に展示されている、「ガンプラビルダーズワールドカップ2018」オープンクラス優勝作品「GUNDAM EXIA R㈼ -fetal movement-」(Yusuke Satoさん)を紹介する川口名人。(写真:竹内みちまろ)
「ガンダムベース東京」(東京・お台場)に展示されている、「ガンプラビルダーズワールドカップ2018」オープンクラス優勝作品「GUNDAM EXIA R㈼ -fetal movement-」(Yusuke Satoさん)を紹介する川口名人。(写真:竹内みちまろ)
「ガンプラビルダーズワールドカップ2018」オープンクラス優勝作品「GUNDAM EXIA R㈼ -fetal movement-」はアニメ「機動戦士ガンダム00(ダブルオー)」の2ndシーズン(2008年10月−2009年3月)で最終決戦に備えてガンダムエクシアリベア㈼を改装している情景を表現している。(写真:竹内みちまろ)
「ガンプラビルダーズワールドカップ2018」オープンクラス優勝作品「GUNDAM EXIA R㈼ -fetal movement-」はアニメ「機動戦士ガンダム00(ダブルオー)」の2ndシーズン(2008年10月−2009年3月)で最終決戦に備えてガンダムエクシアリベア㈼を改装している情景を表現している。(写真:竹内みちまろ)
自身が組み立てたガンプラを紹介する川口名人。「ガンダムベース東京」(東京・お台場)には、川口名人が組み立てたガンプラも展示されている。(写真:竹内みちまろ)
自身が組み立てたガンプラを紹介する川口名人。「ガンダムベース東京」(東京・お台場)には、川口名人が組み立てたガンプラも展示されている。(写真:竹内みちまろ)

機動戦士ガンダム40周年(2019年)ガンプラ40周年(2020年)「ガンプラギャラリー」

SDガンダム クロスシルエット RX-78-2 ガンダム
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ハロプラ
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MGザクⅡシャア専用 Ver2.0(1/100) MG(マスターグレード)
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MG 1/100 フルアーマー・ガンダム Ver.Ka(GUNDAM THUNDERBOLT版)
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  • 取材・撮影・構成竹内みちまろ

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