あのショートヘアも健在…平成J-POPの歌姫・永井真理子が語る「毎日楽しくてしょうがない」再始動 | FRIDAYデジタル

あのショートヘアも健在…平成J-POPの歌姫・永井真理子が語る「毎日楽しくてしょうがない」再始動

スペシャルインタビュー あの頃、「ミラクル・ガール」「ZUTTO」「ハートをWASH!」に誰もが元気づけられた――

  • Facebook シェアボタン
  • X(旧Twitter) シェアボタン
  • LINE シェアボタン
  • はてなブックマーク シェアボタン

「昨年は20年ぶりにファンクラブを復活させたりして、充実の一年になりました。最近はデジタル・ファンクラブが主流ですが、会報誌を作って、バースデーカードには私がひとりひとりに手書きのサインや一言メッセージを添えています。″昭和感たっぷり″のサービスをしたら、すごく喜んでもらえて(笑)」

’80年代後半から’90年代にかけ、ガールポップ・ブームの先駆けとして活躍した永井真理子(57)。あのハジける笑顔が戻ってきた!

アルバム『Miracle Girl』のジャケットみたいな写真が撮りたいというカメラマンのリクエストに応えて、元気溢れる大ジャンプ!!
アルバム『Miracle Girl』のジャケットみたいな写真が撮りたいというカメラマンのリクエストに応えて、元気溢れる大ジャンプ!!

ファンクラブ復活以外にも、泊まりがけでのファンツアーや感謝祭などのイベントを開催してファンと精力的に交流。本格再始動したのである。

’87年のデビュー当時、白いシャツ、ジーンズとともにトレードマークだったあのショートヘアも健在だ。

「しかも、シャツを(ジーンズに)インしていましたからね(笑)。何か狙いがあったわけではなく、あれが素の私。『こんな格好でテレビとかに出ていいのかな』と思っていましたが、スタッフさんが『ナチュラルでいい』と言ってくれて。ただ、当時の映像は恥ずかしくて見られないですね。なんで、あんなにポップコーンが弾けるように元気に跳び上がっていたのか? 若さって凄いなって思います」

短大時代は軽音サークルに所属。卒業後も音楽の世界で生きていきたいと思った永井がレコード会社(ファンハウス)にデモテープを持ち込んだところ、とんとん拍子でデビューが決まった。

’89年に『ミラクル・ガール』、’90年代に入ると『ZUTTO』や『ハートをWASH!』などのヒット曲に恵まれ、瞬く間にスターへの階段を上がっていった。

「たくさんの″ミラクル″が起こりましたね。ライブをやるたび、怖いぐらい会場が大きくなっていって。『ミラクル・ガール』は当初、アルバムの候補曲だったのですが、スタッフさんの勧めでシングルにしてみたら、アニメ『YAWARA!』の主題歌になったこともあって、皆さんに愛される曲になってくれました」

『ザ・ベストテン』(TBS系)や『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)などの人気音楽番組のほか、’91年には『NHK紅白歌合戦』にも出場。’92年には織田裕二(56)主演のドラマ『あの日の僕をさがして』(TBS系)に主要キャストの一人として出演したこともあった。

「いろんな番組に呼んでいただきましたが、一番嬉しかったのは子供の頃から見ていた『夜ヒット』に出られたこと。最初に出演したときは、緊張で地に足がついていない感じで、あとでビデオを見たら、笑っちゃうくらい肩が張っていて。

紅白に出たときは田舎の祖母が喜んでくれて、出場記念にもらったトロフィーを実家の床の間にずっと飾ってくれていました。『あの日の僕をさがして』は、いわゆる当時流行ったトレンディドラマです。音楽以外でも自分にできることがあれば挑戦したいと思っていたのですが、自分のことで精一杯の私に、他人を演じることは無理だと痛感しました(笑)」

ライブで日本全国を回り、テレビやラジオなどのメディアにも多数出演。あまりの過密スケジュールで自分がどこにいるのか、わかっていない時期もあった。

「完全に自分のキャパシティを超えていましたけど、同時に嬉しさもありました。朝起きるといつも『昨日のことは夢じゃなかったのか』と確認する日々。『もし夢なら、覚めませんように』って、いつも思っていましたね」

ライブ中に結婚発表

’93年に結婚、’96年に長男の出産という転機を迎え、’03年からの約10年間、一家でオーストラリアに移住した。

「ライブ中に結婚発表したんですけど、当時は20代の女性アーティストが結婚発表なんて絶対にできない時代。業界に衝撃を与えただけでなく、ファンクラブの男性会員さんも減ってしまいました(笑)。でも、いろんなアーティストさんから『よくやった!』って称賛されましたね。所属事務所も反対しなかった。私は恵まれていたと思います。

オーストラリアへ移住したのは、さまざまな経験をしてみたかったのと、いままで歩いてきた人生を振り返りながら、次のことを考えたかったから。短大を卒業後、幸せなことにすぐにデビューさせていただき、音楽以外の世界を知らずにいたこともあり、一度、頭を真っ白にして普通の女性、普通の母親として生きてみたかったんです」

’13年に帰国。デビュー30周年にあたる’17年に、11年ぶりの新曲をリリースするなど、少しずつ音楽活動を再開した。

「活動を休止している間も、私の胸のなかに音楽への思いはずっとありました。ただ、自分の立ち位置を見失っていたし、長いブランクを乗り越えられるような力がなかなか湧き上がってこなかった。なので、復帰は考えもしなかった。ところが50歳になって、ちょうどデビュー30周年だったこともあり、ファンの方々や音楽関係の友人たちが背中を押してくれたんです。

年2回くらいしか更新していなかったブログに『またぜひ歌ってほしい』などとメッセージが届いて、いい意味で圧がかかった。復帰には相当なエネルギーが必要でしたけど、『人生最後のジャンプになるかもしれない』と思ったら、不思議とスイッチが入りましたね」

復帰に向けて約半年間、ボイストレーニングで喉の筋肉を強化した。知り合いのミュージシャンを通じて相談に乗ってくれたのが、元『プリンセス プリンセス』の岸谷香(56)だった。

「最初はまったく声が出なくて。岸谷さんも長いブランクから復帰していたので、どういうトレーニングをしたのか聞いたら、ボイトレの先生を紹介してくれた。あのサポートがなければ、もっと復帰に時間がかかっていたかもしれない。彼女とボイストレーナーさんは恩人ですね」

再スタートにあたって、永井が決めたのは「自分のやりたいことを徹底的にやり尽くす」ということだった。

「若い頃は、与えられた仕事をこなすだけで精一杯でしたから。復帰後、十数年ぶりにライブをしたときは、私もお客さんもどこにテンションを持っていっていいかわからなくなって、お互い涙しか出ないで終わっちゃったときもありましたけどね(笑)。それでも、気分は20歳でデビューしたときと一緒で、すごく新鮮。10年以上お休みして、子育ても存分にして、人としていろんな経験を積んで、いまがある。毎日が楽しくてしょうがないんです」

冒頭のファンクラブを復活させるキッカケになったのが、『大人の修学旅行』『大人の合宿』と題したファンツアーだった。泊まりがけでファンとライブ、ラジオ体操やバーベキュー、散歩を楽しんだのだが、「SNS経由で連絡をしていたので、想像を遥かに超える申し込みに対応できませんでした」と永井が苦笑する。

「1泊2日だったんですけど、連続で開催したので熱中症になってしまって、途中から氷で頭を冷やしていました(笑)。楽しかったので、またやりたい!」

ハジける笑顔のまま、永井は続けた。

「セルフカバーアルバムを3枚ほど出したり、ライブでは懐かしの曲をリアレンジしたり、ここまでは″青春のおかわり企画″が多かった。もちろん、昔の曲を喜んでもらえるのは嬉しいのですが、そこに甘えてしまっては、再始動した意味がない。今年はニューアルバムを発表する予定ですし、新しい企画もちゃんと考えてあります。″シン・永井真理子″を表現していけたらと思っています!」

大きなジャンプとなりそうだ。

このボーイッシュさが印象的だった。当時、衣装は自前。シャツをインするのは永井流だった(本人提供)
このボーイッシュさが印象的だった。当時、衣装は自前。シャツをインするのは永井流だった(本人提供)
デビューから30年以上の時が過ぎ、熱烈な佐野元春ファンだったロック少女は大人の女性アーティストに
デビューから30年以上の時が過ぎ、熱烈な佐野元春ファンだったロック少女は大人の女性アーティストに
本誌未掲載カット 永井真理子・平成J-POPの歌姫が本格再始動を語る
本誌未掲載カット 永井真理子・平成J-POPの歌姫が本格再始動を語る
本誌未掲載カット 永井真理子・平成J-POPの歌姫が本格再始動を語る
本誌未掲載カット 永井真理子・平成J-POPの歌姫が本格再始動を語る

FRIDAY2024126日号より

  • 取材・文栗原正夫PHOTO小松寛之

Photo Gallery5

FRIDAYの最新情報をGET!

Photo Selection

あなたへのおすすめ記事を写真から

関連記事