元SKE48・平松可奈子は商品プロデューサー 卒業と将来
自己発信で“未来”を切り開いたアイドル卒業後の新基軸 「アイドルのセカンドキャリア」
女子アイドル界ではグループの解散やメンバーの卒業が目立った2018年。「アイドル戦国時代」と叫ばれたのもはるか昔、過渡期を経た今ではグループ出身者たちの“セカンドキャリア”への関心も高まりつつある。では、卒業後に彼女たちはどんな“未来”を歩んでいるのか。元SKE48の平松可奈子に尋ねた。

2013年5月に約4年10ヵ月の在籍期間を経てグループを卒業した平松は、2015年からアパレルブランド「Honey Cinnamon」のプロデューサーへ就任。出店先の渋谷・109で売上げに貢献したことから「新人賞」を獲得するなどの手腕を発揮し、現在では多岐にわたるジャンルの商品プロデュースへ関わり“実業家”として成功を収めている。
■自己発信で念願の“プロデュース業”へたどり着いた
――現在の活動や肩書きを教えてください。
平松可奈子(以下、平松):商品プロデュースをメインにしているため、マルチプロデューサーと呼ばれることが多いかもしれませんね。舞台への出演やMCのお仕事などもあるので、タレントとしても活動しています。
――プロフィールの特技欄に「プロデュース」と記載されているのは、珍しいなと思いました。2013年5月にSKE48を卒業したのち、プロデュース業へ進んだのは自分発信だったのでしょうか?
平松:いえ、じつはツテがまったくなかったんですよ。モデルのお仕事やプロデュース業への憧れはずっとありましたが、そっちの世界に知り合いもいなかったので、初めのうちはどうしようかと迷っていました。ただ、その時期からですね。ちょうどツイッターやインスタグラムが流行り始めていたので「どうすれば夢が叶えられるか?」と悩んだ末に、誰かの目に止まればいいと“自分の世界観”をネット上で発信し始めました。
――Twitterの開設日が2013年8月となっていました。当時はどういった情報を発信していたのでしょうか?
平松:自分の趣味や、好きなヘアメイクであったり自分自身の持つ“世界観”が伝わる写真に言葉を添えてたくさん投稿していました。「〜してみたい」「〜になりたい」などの発信も多かったと思います。そうしているうちに少しずつ憧れていた雑誌の方や、個人のカメラマンさんから「個展のモデルをやってくれませんか?」とお声がけいただけるようになって。そのうちの一つが、プロデュース業へ進むきっかけとなったアパレルブランド「Honey Cinnamon」の運営会社からのお話でした。

■慣れないプロデュース業に四苦八苦
――自分発信でつかみ取った夢。プロデュース業の出発点であった「Honey Cinnamon」では、どういったところから関わり始めたのでしょうか?
平松:トータルプロデュースですね。ブランド名も考えたと思われがちなのですが、実際にはWeb上のみで展開していた「Honey Cinnamon」を引き継いだ感じです。デザインの勉強をしてきたわけではないので、試行錯誤しながら商品のデザインはもちろん、毎月の企画会議、サンプルチェックにも関わっていましたし、撮影ではスタッフさん選びやスタジオ選びも一緒に考えたりと、ブランドに関わることはすべて目を通していました。
――完全に裏方としての仕事を任されていたわけですね。勝手の分からぬまま、誰かにノウハウなどは教えてもらったのでしょうか?
平松:いえ、すべて手探りでした。商品のデザイン一つとってもファッションの学校へ通っていた経験もないし、何もかも分からないことだらけでしたね。ただ、当時の代表者だった方から「平松さんの世界観を求めているから、今のままでいいですよ」とおっしゃっていただいたことに励まされて。だからこそ応えなければいけないし、とにかく自分の思いつくがままに一つひとつ具現化していきました。
――マニュアルがないどころか、まさに“マニュアルを作る地点”からのスタートだったわけですね。当時、正直なところ逃げ出したいと思ったことはなかったのですか?
平松:本音をいえば、精神的にいっぱいいっぱいだった時期もありました。実店舗向けに商品を定期的に入れ替える必要があるのでひと月あたり20〜30型近くの新商品を出さなければいけなかったんですが、アイデアのすべてが商品化されるわけではないので、実際は倍以上のデザインを出さないといけないんです。
ちょうどその時期に舞台稽古が重なると、目を離したすきにLINEが50件ほど溜まっているというのも日常的にあって。わずか5分の休憩時間で返信をするという経験から「いかにレスポンスを早くするか」を自分なりに工夫するようになりましたね。スピード勝負なところもあるので。展示会の時期が近づくと「お客さんが来てくれなかったらどうしよう?」と不安が押し寄せて眠れなかったり、プレッシャーもだいぶありました。

■アイドルは“自分自身”に責任がかかってくる
――様々な苦労も味わいながらプロデューサーとして幅を拡げ、ダイソーとフリュー株式会社の「GIRL’STREND研究所」とのコラボレーション商品が大ヒットを飛ばすなど、手腕を発揮しています。アイドル時代と異なる視点を持ったのはどういった部分でしょうか?
平松:目立つのは売上げに対する責任ですね。それこそ「Honey Cinnamon」では毎月の戦略会議にも出席していたので、リアルな数字を意識するようになりました。振り返るとプロデューサーへ就任した直後は“自分が作りたいモノ”だけを考えていましたが、経験を重ねるうちに「それだけではダメだ」と思うようになり、需要と供給のバランスをみきわめるようになりました。

――責任という言葉が出ましたが、アイドルとプロデュース業では違いがありますか?
平松:アイドルとしての責任は、自分自身にかかってくるものだと思うんです。何があっても、それこそ私の場合は“平松可奈子”そのものにかかってくる。私を応援してくれるファンの方々のために頑張らなければいけないとか、握手会の集客が減ってしまったり、総選挙で選抜メンバーに選ばれなかったとしても、どこか「自分の実力」と思うことができていたんです。
一方で、プロデュース業は自分の発案で、たくさんのお金や人が動くのを実感するのが大きな違いだと感じています。自分たちだけではなく取引先にもメリットを生まないといけないし、好きなモノだけを提供するわけにはいかない。だから、経験から学んでいくなかで自分自身の“リアルな価値”を強く意識するようになりました。

――逆に、アイドル時代と現在とで共通点はありますか?
平松:自分自身の価値が試されるというのは、共通しているのかもしれません。SKE48にいた時代は、正直なところ挫折もけっこう味わったんですよ。選抜総選挙で常に順位を付けられていたので「みんなと同じことをしていたら這い上がれない」「プラスアルファの何かがないとダメだ」と思いながらも、上手く行かずに落ち込むときもありました。
ただ、当時の経験があったからこそ自分の立ち位置や求められるものを俯瞰できるようになったし、それが今ではプロデュース業を通して「相手が求めているものは何か」に置き換えられているのかなとも思います。
私の場合は広告塔として任されるのではなく、実際のアイデアや発想を求められる案件が多いので、ひいては売上げやお客さんからの反応といったかたちで、自分自身の価値が決まっているという感覚もあります。

■卒業後の選択肢は3パターンを考えていた
――話の端々から“戦略家”としての一面も垣間見えるのですが、そういった素質はアイドル時代からもあったのでしょうか?
平松:グループ卒業までの道筋を思い浮かべていたという点では、ひょっとしたらあてはまっているのかもしれませんね。活動中から「20歳を過ぎたら卒業したい」と、何となく思っていたんですよ。だからこそ先を見据えて大学へ進学したし、当初は卒業後に3つの選択肢を持っていました。
一つは、芸能界でソロ活動を続けるということ。もう一つはファッションに興味があったのでそっちの分野に進むことで、当時は“乙女ゲーム”にハマっていたのでゲーム制作会社に就職するということも視野に入れていました。
――いずれにせよグループからはいつか、卒業をしなければいけないと思っていたんですね。
平松:そうですね。実際に決断したのはたぶん大学4年生になってからで、ふと「学生という肩書きがなくなるときにアイドルを辞めよう」と思ったんです。じつは、大学の卒業論文でも「アイドル論」をまとめて、自分なりのアイドルの定義は「少女である」という結論に至ったのですが、やはりずっと続けられるものではないと考えました。

――今、ご自身が離れてからの“アイドル界”はどう見えていますか?
平松:自分がメンバーとして活動していた頃以上に、自己プロデュースができる子でなければ“生き残れない”時代なのかなと思います。歴史をさかのぼれば、山口百恵さんたちが活躍していた時代はアイドルが手の届かない存在でしたけど、私がいたSKE48のように握手会を精力的に行う“会いに行けるアイドル”が定着した現代は、成長のプロセスをみせるというのが土台にあると思うんです。
裏側の苦悩や葛藤をみせることで、ファンの方々から「育ててあげたい」「近くで応援したい」と共感していただくのは必須なのですが、その手段であるSNSの選択肢が私が在籍していた当時よりも増えているんですよね。それこそ「SHOWROOM」や「TikTok」などの動画配信サービスが定番化した現在は、よりいっそう本人の“プロデュース力”が試されている気もします。
自己プロデュース力が高い子は同性からの支持も獲得しやすいのが、本人の強みにもなるんです。だからこそ用意されたモノで輝くのではなく、自分で“舞台”を用意して輝ける子が、これからは“売れる”時代にさしかかってきたのかなと思います。

■アイドル卒業しても「好きを仕事にする」べき
――今後は、どういった活動を展開していきたいですか?
平松:理想としてはプロデュース業を軸として、タレントとしても活動を続けていきたいと考えています。ただ、どっちつかずにやるのではなく「プロデュース業のためにタレント業をやってるんでしょ?」と言われないように、もっとたくさんの方にプロデューサーとして知ってもらえるよう努力をしていきたいですね。
じつは「Honey Cinnamon」でデザインした洋服も「どうせみんなに配って着てもらっているんでしょ?」と言われたこともあるのですが、そういった発想をしたことは一度もないんです。私は「平松さんがプロデュースしたから手に取りました」と言われるよりも、たまたま誰かが手に取った商品が「じつは、平松可奈子がプロデュースしていた」と気づいてくださる方が嬉しいので、様々な分野に関われるようになれたらなと思います。
――最後に改めて、グループアイドル出身者であり成功した一人として、後輩のみなさんへ“卒業”についてのアドバイスをいただければ。
平松:アイドルになった子たちは元々の憧れがあったり、心からアイドルそのものが好きだからこそ今はその世界にいると思うんです。私も同じだったので、もし自分の将来を見据えるのであれば「好きを仕事にする」ということを意識するのが大切だと思います。
アイドル以外の選択肢として、自分にとって大事なものや続けられるものを見つけたのであれば、きっと今と同じように努力することはできると思うんですよね。自分の意志がハッキリとしないままでは卒業しない方がいいと思うし、タイミングとしては「アイドルをやり切った」と胸を張って言えるときがベストではないかなと思います。

グループ卒業後、自己発信により願っていた“プロデュース業”へ進んだという平松の事例は夢のある話だ。アイドルの“セカンドキャリア”として、未来ある後輩たちのベンチマークとなるべく今後も活躍の幅を拡げてほしい。
文・撮影:カネコ・シュウヘイ
(編集者/ライター)1983年11月8日生まれ。埼玉県在住。成城大学出身。2008年から出版業界に従事、2010年に独立しフリーランスとなる。以降、Webや雑誌でエンターテインメント系のジャンルを中心に取材や執筆へ注力。月平均4〜5回はライブへ足を運ぶアイドル好き。著書に『BABYMETAL追っかけ日記』(鉄人社)