アツくてストイックな頑固者 阿久悠を語ろう

緊急対談 息子・深田太郎×音楽プロデューサー・小西良太郎、八代亜紀も登場!

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昭和歌謡界の鬼才、阿久悠。『UFO』、『勝手にしやがれ』など、彼が生み出した名曲のCD売上枚数は実に6800万枚を超える。“時代と寝た男“とまで呼ばれた伝説の作詞家、その知られざる素顔に、阿久の長男・深田太郎と音楽P・小西良太郎が迫った!

『ヤマト』のプロデューサーと嵐の中で命がけ旅行

小西 僕が初めて阿久悠に注目したのは、’70年の『ざんげの値打ちもない』だった。あれはそれまでの歌謡曲の常識をすべて覆してしまった。

深田 タイトルは長いし、ストーリーは長いし、おまけに暗いしね(笑)。

小西 とんでもない大物が出てきたと思った。特に、映像のように情景を想像できるところがすごかった。19歳の女の子が男を刺すためにナイフをかざして待っている。そのナイフの青白さまでイメージできるんだから。

深田 それから小西さんは、『スポーツニッポン』で父のことをたくさん記事にしてくださったんですよね。

小西 そう。そしたらちょっと会いにくくなっちゃってね(笑)。ラブレターをいっぱい書いた女性に初めて会うような感じでさ。でも、何かのパーティで一緒になって初めて挨拶した。阿久さんは、最初のころは人見知りだったね。

深田 あの強面でしゃべらないんだから、とっつきにくいですよね(笑)。でもすぐ、一緒に旅行するくらい仲良くなった。

小西 ああ、あったな(笑)。『宇宙戦艦ヤマト』のプロデューサー、西崎義展(よしのぶ)のクルーザーで伊豆諸島に行ったんだよね。

深田 西崎さんの操縦で父と小西さんと、他にも結構な人数が乗ってましたよね。当時、僕は中学生でした。’79年か’80年の夏だったと思うんですけど。

小西 「西崎事件」だったな、あれは。台風直撃の中、行ったんだよね。

深田 そう。台風で海がえらい荒れ狂っちゃってね。

小西 なんとか新島に入って行ったら、島の人がすっ飛んできて「何をバカなことやってんだ」って、すごく怒ってた。

深田 そこらへんの漁船なんかはみんな下田へ避難してましたもんね。もし事故になっていたら大変でしたね。

小西 阿久さんは、特に何もしゃべらなかったな。憮然としてたのかな。

深田 父は怖い顔して完全に固まってました。相当肝を冷やしたんじゃないでしょうか(笑)。

小西 まるで高層ビルのような高さの波に突っ込んでいくんだからな。

深田 忘れられないですね、あれは。

小西 西崎は変わった人でね。『宇宙戦艦ヤマト』のことを語りながら、自分に酔っちゃうんだ。

深田 自分で書いた企画書を読みながら感動して泣いていたらしいです。そんな人初めてだって、父も言っていました。でも、その熱意を買って、父は『ヤマト』の歌詞を書いたんです。

小西 阿久さんのすごいところは、締め切りを必ず守ること。「ごめん! ちょっと一日だけ待ってくれ」っていうのは30何年間付き合ったけど一回もない。

深田 『甲子園の詩』の話なんかまさにいい例ですよね。ある甲子園大会の準決勝の前に、小西さんからウチに電話がかかってきて……。

小西 翌日の一面に載せる面白いプロ野球の記事がないから、どうしようかという話になっていて、「じゃあ高校野球の記事を阿久さんに頼もうよ」となったんだよ。電話したらマネージャーが出て、「今日明日中に渡さなきゃいけない詞が6~7篇とかあるので到底無理です」と言う。

深田 そこで小西さんが粘って、「わかった。でも一応、本人に聞いてみてくれ」っておっしゃったんですよね。そしたら父は、二つ返事で「やる」と答えた。

小西 それで、書いてもらったエッセイがまたすごいんだ。「なぜ高校野球に男たちは胸を焦がすのか」という内容でね。「決勝戦の時期はもう秋風が吹いて、赤トンボが飛んで……」みたいな、実に詩情あふれる文章だった。

深田 2~3年後には、『スポーツニッポン』の連載企画になって、毎年やることになった。父が高校野球の試合を見て、そこから発想して感動詩を書くという企画でしたね。亡くなる2週間前まで、結局27年も続いちゃうんですよね。

小西 二人ともそんな大ごとになるとは思わずに始めたんだけどね(笑)。そういえば、最初の原稿をもらった後に、「6つか7つ、書かなきゃいけない詞があったんだってね。あれどうしたの?」って聞いたら、「前の晩に前倒しして書いていた」って。それから、「小西さん、僕はスポニチの一面を他の誰にも取られたくないんですよ」って。編集担当にとっては最高の殺し文句だった。それが本音なのだから参った。

深田 とにかくストイックで情熱的。そして負けず嫌いでした。ただ、普段の父は結構受動的で、誰かが声をかけてくれるのを待っているみたいなところがあった。だから小西さんにはいろんな面白い仕事をもらえて、すごく感謝していたと思います。

小西 嬉しいね。阿久さんの原稿は、「このくらいのレベルで来るかな」という予想を、いつも必ず上回っていた。

タウンページなみに分厚い 甲子園スコアブック

深田 『甲子園の詩』を書くために、父はテレビにかじりつくようにして毎日、4試合見ていましたよ。

小西 「注目の試合だけ見て書けばいいから」って言ったんだけど、阿久さんに言い返されたよ。「狙い目の一試合だけ見て、残りの3試合の中にとんでもないことが起こったら、僕はそれを見落としたことになる。それは嫌です」とね。

深田 部屋から出てこなかったですもん、甲子園の時期は。8時半に試合が始まって、17時までに書かないと次の日の朝刊に間に合わないから。子供ながらに怖くて部屋にも入れなかったです。僕にとって彼は、「父親」というより「作詞家・阿久悠」だったので、何より仕事の邪魔をしてはいけないと思っていました。でも試合が早く終わった日は、キャッチボールをしてくれたなあ……。

小西 試合見ながら一球ずつメモを取ってたね。阿久悠式スコアブック。

深田 そうそう、水性のサインペンを使ってね。全部合わせたらタウンページみたいな分厚さになった。

小西 癌で入院した後もやってくれた。

深田 痩せて体力が無くなってきても、仕事だけは絶対に手を抜かなかったです。最後は父が書いたメモをもとに僕がパソコンに打ち込んでいたんですけど、そのメモもしっかりしたものでしたよ。

小西 僕ね、’79年の初めごろに一度、「阿久さん、作詞を一年くらい休め」って言ったことがあるんだ。「ちょっと疲れが出てるようだから」ってね。そしたら阿久さんは、「休むとしても半年が限度」と値切る。なぜかと聞いたら、「’80年代頭の歌謡界に僕がいないのは、自分で許せない」って。当時、レコード業界もテレビ業界も、流行のシンガーソングライターに寄って行ってて、歌謡曲を大事にしなくなり始めていた。彼はきっと、それが許せなかったんだね。

深田 時代の変化に苛立ち始めた父は、徐々にメッセージ色の強い作品を書き始めました。’97年には、一ヵ月で100篇もの詞を書いて『書き下ろし歌謡曲』(岩波書店)として発表しています。

小西 たしかに’70年代に比べて、いまは歌が痩せたね。井上陽水とか吉田拓郎とか中島みゆきとか、中には才能のある人もいる。でも他は、「君がいて僕がいる」というような、一辺倒な歌ばかり。

深田 父の詞は一辺倒とは程遠かった。一字一句、こだわり抜いて歌詞と向き合っていた。

小西 阿久さんには、「最近体調不良なのかな」なんて一度も感じたことがない。彼は言葉の魔術師として、精力的というのを飛び越えて戦闘的だった。

深田 その真面目さのせいで一番きつかったのは、西城秀樹さんのミュージカル『わが青春の北壁』の歌詞を書いたときでしょうね。

小西 全部サビみたいに気合を入れて書くんだもの。僕は「全部サビじゃ、お客さんは疲れちゃうよ」って言ったんだ。でも彼は攻め一点張りで、サビばかりの二時間近い詞を書いてしまった(笑)。

発売から40年 よみがえる名曲『UFO』

深田 父はとにかく仕事が楽しくて仕方がないようでした。子どもと母親の出る幕なんてないくらい、いつも仕事のことを考えていましたから。

小西 彼は常に睡眠飢餓状態だったね。寝る時間がほとんどないんだよ。だからか、変な病気ばかりしていた。

深田 最初に癌になったときに、身体が一気に悪くなっちゃって。そこからガタがきてしまった。時限爆弾のように、それまで精神力で抑えていたものが抑えきれなくなった。ちょっとかわいそうでした。

小西 最期に阿久さんが太郎に言った言葉って何かある?

深田 亡くなる前日の深夜に一度病室に行ったんです。そのときは持ちこたえたのですが、「じゃあ帰るね」って言ったときに、父が僕の手を握り「ありがとう」と口を動かしていたように思います。

小西 いま、もし阿久さんが生きてたら、作詞家としてまだ活躍していたと思うな。最近、昭和の歌が流行ってるでしょ。

深田 阿久悠の出番でしたよね。この前、『2018年JASRAC賞』という賞の授賞式がありました。前年度の使用料が多かった曲に賞が贈られるんだけど、そこで父が’77年に詞を書いた『UFO』が銅賞を受賞したんです。40年の時を経て、再びこの曲が注目を浴びている。父のやっていたことは間違ってなかったんだと思ったら、嬉しかったですね。

阿久悠が作詞した『UFO』や『サウスポー』で、『ピンク・レディー』は国民的アイドルに登りつめた
大の野球好きで知られた阿久。’83年6月には、直木賞候補にもなった阿久の自伝的長編小説『瀬戸内少年野球団』が映画化された
ハワイでのテレビ収録の際に撮影された親子ショット。深田氏お気に入りの一枚だ
深田太郎/ʼ65年神奈川県生まれ。阿久の長男で、株式会社『阿久悠』取締役。『君の唇に色あせぬ言葉を』(河出書房新社)が8月17日に刊行
小西良太郎/ʼ36年東京都生まれ。『スポーツニッポン』の記者を経て音楽プロデューサーとして活動。八代亜紀の『舟唄』などをプロデュースした

八代亜紀インタビュー「阿久先生との思い出」

「君に出会うために9年間助走してきた」

阿久先生からいただいた代表曲といったら、やっぱり『舟唄』と『雨の慕情』です。コンサートをするときも、この2曲が特別盛り上がるんですよ。

人気の理由は、情景が浮かびやすいことでしょうね。『舟唄』では、酒場でひとり佇(たたず)む男が描かれています。侘(わび)しい男の姿を表現することで、そこにいないはずの彼の”想い人”が鮮明に浮かび上がってくるんです。

他にも『雨の慕情』では、”大人の女”と”少女”、二つの女性像が描かれています。歌詞の前半は、別れた男の記憶を女が思い出すシーンから始まっていて、とっても大人でしょ。でも後半は、「雨々ふれふれ」って童謡みたいな世界観なの。

私あるとき言ったんです。「先生は私という人間を見て、この二つの女性像を思い浮かべたんでしょ?」って。でも先生はシャイだったから、「ハハハッ」って笑うだけで何も言わないのよ。先生はいつも頭の中で色んなことを考えているんだけど、歌詞の解釈についてお話しされることは滅多になかったです。

そういえば、あまりご自分の思いを語らない先生が、一度だけ私に言ったことがあったんです。「八代くん、日本の歌謡曲が迷子になってきた。一緒に大通りに戻そう」って。たぶん先生には、未来が見えてらしたのね。いまは、ダウンロードするだけで音楽が聴けちゃうし、機械で曲を作ることもできるでしょ。そうやって歌の価値が下がっていくことを、先生は全部予想していらしたんでしょう。

でもね、そのとき私は言ったんですよ。「大丈夫! 生で歌う『舟唄』には、どんなJ-POPも機械も敵わないから」って。そうしたら先生、「アハハ、なるほど」と言って笑ってましたね(笑)。

デビュー9年目で『舟唄』がヒットしたとき、すごく嬉しいお言葉を先生からいただいたの。「八代くん、僕は君に出会うために9年間助走してきたんだ」って。『舟唄』はもともと美空ひばりさんのために書かれた歌詞だったけど、それまでずっと世には出ていなかった。それが、私が歌ったことでやっと日の目を見た。先生はそれを喜んで、ああいう言葉をかけてくれたんじゃないかなと思います。

先生が亡くなってちょうど11年になるけれど、もっと先生の歌を歌いたかったと、いまでも思います。でも、先生の詞はたくさんの人の心に残っていますからね。詞を通して、いつまでも私たちを見守っていてほしいです。

ʼ00年に行われた八代亜紀の30周年記念コンサートには、阿久も駆け付けた
八代亜紀/’50年熊本県生まれ。15歳で上京し、ナイトクラブの歌手として修業を積む。’79年、『舟唄』(作詞・阿久悠)が大ヒットし、翌’80年には『雨の慕情』で日本レコード大賞を受賞。昨年8月29日、千代田区(東京都)「コットンクラブ」にて、バースデーライブを行う
  • 写真会田園、講談社写真資料室

Photo Gallary9

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