被災地・釜石にモダンラグビーを導入した「星名秦」という男

藤島大『ラグビー 男たちの肖像』

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愛称「テキ」の由来

3月11日だけではいけない。わかってはいる。でも、その日の午後2時46分になると思い出し、また想像もする。

揺れた。東京都内の自宅の机でスポーツ誌の原稿を書いていた。長く深く揺れる。積んだ本の上の『フリー・ホイーリン』が滑り落ちた。ボブ・ディランの昔のCDだ。東北の深刻な状況を知るのは数時間後だった。なんとか締切仕事を終えて、ようやくテレビのリモコンの「電源」を押した。

釜石の映像に驚いた。自動車が小舟のように浮いている。
8年の歳月。ラグビーのワールドカップを招く発想と尽力があり、実現に至る。9月25日、フィジー対ウルグアイ。10月13日、ナミビア対カナダ。鵜住居復興スタジアム。悪くない試合だ。カラフルでひたむき。いかにも世界の祭典という感じがする。

あの人も喜んでいるだろう。
かつて三陸の製鉄所ラグビー部に「世界」を注入したテキさんも。

星名秦。1977年9月26日、死去、享年73。戦前の京都大学の名センター、1928年1月に慶應、早稲田を破り全国制覇を果たした。前年夏には上海での極東オリンピック大会に織田幹雄や南部忠平らと参加、陸上の五種競技に優勝している。卒業後は満鉄こと南満洲鉄道に就職、ディーゼル機関車研究のためのドイツ留学を経て、伝説の特急「あじあ」の設計にも携わった。

敗戦後の約2年、いわゆる留用でソ連の軍事輸送や在留邦人の引き揚げ運行計画策定に奔走する。帰国後、同志社大学の工学部教授へ。同学部長を務め、’66年には学長となる。

父の謙一郎は、ハワイ、米国本土、ブラジルへ雄飛、牧場経営や邦字言論新聞の発行に人生を捧げた。息子、「秦の始皇帝」にちなんだ秦はテキサスにて誕生、愛称「テキ」の由来である。幼くして父と離れ、日本で教育を受け、京都府立一中(現・洛北高校)で嶽水会蹴球部と呼ばれたラグビー部に引きずり込まれる。

没後、妻の直子の編んだ私家版『星名秦の生涯』(本稿の年譜や逸話、引用は同書を参照)に満鉄同僚の証言がある。

点検整備、京大出の「主任さん」は、車庫の燃料を積む車両の上から隣の車両へハンマーを手にヒラリヒラリと飛び移った。「年配の助役さんはその度に肝を冷やす」。味方も欺いた鋭角ステップとおそるべき加速でとどろいたラグビー選手には簡単だった。

モダンな戦術を東北へ

日米開戦直前、後輩社員はテキさんの言葉を聞いた。「日本がアメリカと戦争をするちゅうたって、てんで相手にならんよ」。

星名秦は世界の情勢をつかんでいた。それは戦後のラグビーにおいても同じだ。京大や同志社大学をコーチしながら海外文献を取り寄せては学び、情報を惜しげもなく公開した。たとえば遠く離れた新日鐵釜石(富士製鐵時代も含む)にも。

釜石の地には高弟がいた。

市口順亮。京大ラグビー部で「星名先生」の指導に浴した。英国の技術書の翻訳を手伝い、現在のモール、ラインアウトのピールオフ攻撃などの知識を得た。「私は吸い取り紙になった」。工学部卒業後、’64年に富士製鐵に入り釜石に配属、主将、監督を歴任、技術職で異動がないため’72年度から10シーズン、おもに副部長として、ラグビー史に刻まれる新日鐵釜石の全盛を支えた。

星名秦は、釜石のグラウンドを「数度にわたり」訪れた。なんと67歳で運転免許取得の恩師は「僕に運転させなさいよ」。断りたいが断れない。「未舗装の山道」を速度60kmで突っ走った。会うたびに言われた。「日本のラグビーをリードする気持ちで」。

星名精神を継承、大きな都市に出たら丸善の洋書コーナーで英国のコーチング書を漁り、釜石流のアレンジを加えながら採り入れた。タックルなしでパスをつなぐ練習法の「タッチフット」導入、フッカーのラインアウト投入などがそうだ。モールを押すのでなく展開の起点とするアイデアもしかりである。

本稿筆者は、2000年の暮れ、紀行文の仕事で釜石の街を歩き、50歳の男性のこんな話を聞いた。’60年代後半、釜石北高校のラグビー部で「グラウンドを細かく区切った練習をさせられた」。それからざっと20年後に広まる「グリッド」と呼ばれるドリルだ。なぜそんなに早く? 「飲み屋ですよ」。高校の監督が酒場で製鉄所のラグビー関係者と会うたびにトレーニング法を授かった。源流は、きっと京都の研究室にある。

釜石工業、宮古工業、秋田工業。北の各地の高校より集った若者は、土地の雰囲気にそぐわぬようなモダンなラグビーにくるまれ、鍛えられ育ち、考える闘士と化した。

谷藤尚之。元日本代表、新日鐵釜石黄金期の名フルバックである。銀の沈着と金の才気がひとつの人格に収まった。’94年末、仙台で現役時代の思い出を聞かせてくれた。

函館西高校から入って「たぶん2年か3年」。同志社との合同合宿が釜石で行われた。ツルみたいな老人の声がかかった。「君、さっきのところはパスだよ」。かがめた背に垂れる腕、その先にグラウンド整備のトンボが握られていた。テキサス生まれの永遠のコーチである。

※この記事は週刊現代2019年3月30日号に掲載された連載『ラグビー 男たちの肖像』を転載したものです。

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  • 藤島大

    1961年東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。雑誌記者、スポーツ紙記者を経てフリーに。国立高校や早稲田大学のラグビー部のコーチも務めた。J SPORTSなどでラグビー中継解説を行う。著書に『ラグビーの世紀』(洋泉社)、『知と熱』(文藝春秋)、『スポーツ発熱地図』(ポプラ社)、『ラグビー大魂』(ベースボール・マガジン社)など

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