1991年ラグビーW杯予選、熱戦の舞台裏にいた2人のトンガ選手

藤島大『ラグビー 男たちの肖像』

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ふたりの背番号8

4月の消えない記憶だ。

1990年のいまごろ。正確には4月8日の日曜。東京の秩父宮ラグビー場。春の嵐のごとき朝からの天候は、午後2時45分のキックオフが近づくにつれて消え、不思議なほどの青空はみるみる広がった。

日本代表はトンガに勝った。胸の桜は散らなかった。

翌’91年に英仏などで開かれるワールドカップの予選、その初戦だった。’87年の第1回大会へは推薦出場、連戦を突き抜ける経験を知らず、緊張はファンにも伝わった。

現在よりもうんと手ごわかった韓国、おそるべき潜在力をささやかれた西サモア(現・サモア)が同組にひしめいた。上位ふたつが突破。ジャパンはトンガ戦を落とすと苦しくなる。最初の試合がファイナルに近かった。

28対16。キリよく「20000」と発表された観衆は歓喜というよりも安堵に酔った。本稿筆者はスポーツ紙へ中途入社4年目と若かったから、記者はお客さんにあらずと肩肘張って、険しい顔のまま「よかった」と小声を発した。続く韓国戦を26対10でしのいで、やっかいな西サモアとぶつかる前に大会行きの切符をつかんだ。

16年後に早世、宿澤広朗監督の準備の成果だった。映像で「縦突破で鳴るトンガの弱点はスクラムおよび反則の頻発」と分析、タックルと押しの強いフォワードを並べた。26年後に惜しくも死去、平尾誠二主将は、メガバンクの有能なる金融マンでもあった指導者を信じ、ひたひたと戦法を遂行した。

殊勲はフルバックの細川隆弘。縁戚の平尾主将と同じ道、京都市立伏見工業(現・京都工学院)高校-同志社大学-神戸製鋼と進んだ名キッカーは足だけで計20点を稼いだ。ペナルティーゴールで3点を刻むための人選。ここでも監督の読みと起用は当たった。

ふたりの背番号8を忘れられない。

現在とは異なり、日本代表の先発メンバーにカタカナの名は「帰国後はそろばん教師になる約束で」トンガから大東文化大学へ留学、三洋電機へと進んだ鋼鉄のナンバー8、シナリ・ラトゥひとりであった。

約1年前の宿澤監督との初対面、いきなり104㎏の体重を「90㎏まで落とせ」と命じられた。激しく前へ出る防御をチームは採用する。その後方を横にカバーするのだと。

決戦の前夜、母国との激突に締まった体は寝つけない。トンガ生まれの愛妻アメリアは電話で告げた。「あなたはジャパンのために力を尽くせ。私は自分の国を応援する」。18年前、シナリ・ラトゥ本人に確かにそう聞いた。在留同胞の集う観客席の一角に伴侶は座ったのだとも。正しいなあ、と、こちらがつぶやくと本人は答えた。「正しい」。

手負いのトンガ主将は今

でも7年前のインタビューでは明かした。

「本当の気持ちは違ったんですよ」。トンガ人である妻はトンガ人に囲まれながらトンガとぶつかる夫の勝利を願った。’95年に生を享けた愛息、ウィリアムクルーガーは、いま、パナソニックワイルドナイツの一員である。

そして、あの午後のもうひとりの8番の姿もよみがえる。トンガのキャプテン、シアオシ・アティオラ。後半20分前後、突然、芝に伏した。タックルを仕掛けた際の頸椎損傷により退場、都内の病院へ運ばれる。

伏線はあった。ウェールズの人気レフェリー、レス・ピアードさんは、南太平洋諸国では許される「胸の上をめがけた激しいタックル」に反則を科した。アティオラ主将は、誇りに満ちるラグビー国のリーダーらしく懸命に対応する。慣れぬ低さで肩を当てようと試みて首をひねった。

筆者は後日、記者仲間と慈恵医大の病床を見舞った。広く麻痺の危険があった。会釈のみで帰ったか一言二言交わしたか。コルセットの上の澄んだ目ならくっきり覚えている。

シナリ・ラトゥは白星の夜、トンガ代表の宿舎へ向かうように日本協会より指示された。治療を要する負傷者がいる場合、通訳をすべし、なる任務である。後年、笑って話した。「行きたくなかった。殺されるんじゃないか。そう思いました」。実際、鋭い視線は襲いかかった。すると監督がたしなめた。「私たちが弱いから負けただけだ」。

当時25歳のアティオラ主将は、仲間より遅れて帰国する。代表歴は日本戦が最後である。キャップ8。さて健康なのだろうか。インターネットで追いかけてみる。7人制のトンガ代表をめぐる2016年の記事が見つかった。「シアオシ・アティオラとタホロ・アニトニの新しいコーチング・チーム」(ラジオNZ)。調べ進めるとチームの集合フォトを発見、ひとりの年配者の顔が、手元にあるジャパン戦当時の写真とよく重なる。眉や鼻の形がそっくりだ。

同姓同名同世代、他人の空似の可能性もおもしろいのでそれはそのままに、たぶん勇敢なキャプテンは元気である。

トンガに勝って3日後、水曜の午後2時45分、韓国戦が始まった。休日ではない。やけにネクタイ姿が目立った。楕円球を好む都内の営業マンは全員そこにいたのではないか。携帯電話の普及はまだまだ先、ひととき行方知れずになれた。ワールドカップ出場決定。なぜか照れたような笑顔で働き場へ急ぐ背広の隊列を思い出す。

※この記事は週刊現代2019年4月13日号に掲載された連載『ラグビー 男たちの肖像』を転載したものです。

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  • 藤島大

    1961年東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。雑誌記者、スポーツ紙記者を経てフリーに。国立高校や早稲田大学のラグビー部のコーチも務めた。J SPORTSなどでラグビー中継解説を行う。著書に『ラグビーの世紀』(洋泉社)、『知と熱』(文藝春秋)、『スポーツ発熱地図』(ポプラ社)、『ラグビー大魂』(ベースボール・マガジン社)など

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