新1万円札の「渋沢栄一」は日本一の高級住宅街を作った人だった

日本経済の父は、田園調布の父でもある

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新札の顔はダサイタマ出身

経済を勉強すると必ず出てくる人、それが渋沢栄一です。
東京証券取引所を作り、国立銀行を作り、日本に株式会社を根付かせて、500もの会社の設立に関わった「日本経済の父」。では、なぜ彼がそこまでの人物になったかというと、幕末の動乱のなかで、「御三卿」のひとつ、一橋家に拾い上げられたこと、これが大きい。

渋沢が生まれたのは天保11(1840)年。武州(現在の埼玉県深谷市)血洗島の豪農の息子でした。それにしてもすごい地名。“血を洗う島”です。昔のひともそう思ったらしく、渋沢もあちこちで「どういう由来の地名で?」と聞かれていたとか。赤城山の霊と争った他の山の霊が片腕をもぎとられてその腕を洗ったから、とか清和源氏のヒーロー・八幡太郎義家が奥州遠征の途中、彼の部下が切り落とされた片腕の血を洗い埋めた場所だから、という言い伝えがあるそうです。

18歳ですでに父より漢籍が読めたという秀才の渋沢は、京都に出て流行の幕末の志士になります。が、残念ながらちょっと若すぎたのと、“コネ”がイマイチでした。そもそも埼玉という地は、中途半端に江戸に近いため、江戸時代は幕府官僚たちの役職領地として細切れにされました。1000ぐらいの領主がコロコロ変わりながら存在していたという事情があり、「我が地の殿様は××家です」といいづらい。

深谷藩に至っては江戸後期に廃藩になって、お城も取り壊されているぐらいです。現代でも「どの大学のご出身?」というところからビジネストークが始まったりするように、「貴殿は、どのご家中か?」と言われて、特にありません、では話がつながらないわけです。

そんな渋沢ですが、猫の手も借りたい状態だった一橋家に仕官することになりました。一橋家は八代将軍・吉宗が自分の息子たちに分家させた「御三卿」のひとつ。これらの家は当主が将軍になれる資格をもってはいるものの、藩は持たず、10万石ぶんのサラリーを幕府からもらって、家臣団も幕府から出向する仕組みでした。ところが当主・一橋慶喜(後の徳川15代将軍)は家康以来の名君と言われてひっぱりだこ。そこで急遽手が足らなくなってリクルートされた一人が計算に明るい渋沢だったというわけです。

徳川慶喜ラブだけど、勝海舟は嫌い

渋沢栄一はものすごく嬉しかったらしく、晩年になっても繰り返し「私は慶喜公の恩に殉じるつもりだった」と言い続けています。ところが渋沢が、「パリ万博」使節に命じられた慶喜の弟・昭武の随員としてパリに行っている間に明治維新になってしまいました。

慶喜は前将軍として静岡に謹慎していますので、もう家来は必要ありません。というか養えない。維新前には周旋方(外交関係)として西郷隆盛にかわいがられて一緒に豚鍋を食べたこともあったという渋沢に、新政府から誘いがあります。気の進まないまま大蔵省に勤めた渋沢ですが、大久保利通と衝突して「二度と官には仕えん!」と辞め、それから死ぬまでひたすら民間の企業を興すことに注力しました。

ちなみに渋沢の慶喜ラブは相当なもので、維新後の慶喜の家政やりくりに奔走する勝海舟のことを「あまりに慶喜公のことを(静岡に)押し込めていて、私は快く思っていなかった」といい、(勝が渋沢を)小僧扱いしやがって、と晩年ぶちまけています。

晩年の渋沢栄一(前列中央)と家族。渋沢は7人の子女に恵まれ、子供たちも政財界の要職を歴任したり、要人の元に嫁いでいる

さて、そんな渋沢は経済界を代表する大立て者となって、ルーズベルト大統領と会見したり、パナマ運河の開通式に呼ばれたりと華々しい活躍を続けますが、最晩年には町を作っています。

それが、日本最初にして現在も最高峰の高級住宅街・田園調布。もっとも、渋沢は「高級」住宅街を作るつもりではなかったようです。欧米の緑豊かな丘陵とそこに点在する家をイメージした中産階級用の町を目指していたとされます。ですが、町の規約として、建築は地上2階建てまで、ワンルームタイプの集合住宅は不可、土地分割時は165平方メートルを下回ってはいけない、などの制限から、家を建てることのできる層が限られてしまったのでした。

ちなみに田園調布で一番有名な住人は、間違いなく長嶋茂雄さんだと思われますが、長嶋さんが田園調布に家を買ったのは、当時の巨人軍グラウンドが田園調布のすぐ近く、多摩川にあったからでした。

多摩川河川敷では、子どもたちが毎日巨人の練習を見て、選手に握手してもらったりサインボールをもらったりという牧歌的風景が昭和の時代には繰り広げられておりました。ちなみに握手してもらった一人が、筆者であります。

田園調布4丁目となる多摩川河川敷にあった巨人軍グラウンド。いつもファンが取り巻いていた
  • 写真講談社写真資料室(2枚目、3枚目)取材・文花房麗子

Photo Gallary3

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