「なんでんかんでん」川原ひろし氏と回想する平成ラーメンシーン | FRIDAYデジタル

「なんでんかんでん」川原ひろし氏と回想する平成ラーメンシーン

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現在、東京都内だけでも3000軒以上のラーメン店がある。ラーメンは、いまや単なるブームを超えて、生活に無くてはならないものとなった。 

そんな風潮は、平成という時代に入ったあたりから強くなっていく。その流れを作った要因はさまざまだが、東京の平成のラーメンシーンを語るうえで欠かせないのが「なんでんかんでん」だ。 

伝説のラーメン店「なんでんかんでん」がオープンしたのは、昭和62(1987)年。東京に初めて福岡・博多の豚骨ラーメンを広めた店として知られ、最盛期には1日120万円もの売り上げを叩き出すほどの繁盛ぶりだった。店の前の道路は“なんでんかんでん渋滞”が起き、毎日警官が交通整理をしていたほどだ。平成24(2012)年に突然閉店したものの、平成30(2018)年に東京・高円寺で復活し、再びメディアを賑わせた。 

そこで、平成が終わる今、ラーメンシーンを賑わせた伝説の店の店主、川原ひろし氏のコメントとともに、平成のラーメンシーンを振り返っていきたい。

高円寺店は復活店舗1号で、現在は、多店舗展開を見据えて新たな物件を探しているといるところだとか。フランチャイズも国内外で展開予定だ
高円寺店は復活店舗1号で、現在は、多店舗展開を見据えて新たな物件を探しているといるところだとか。フランチャイズも国内外で展開予定だ

平成初期の人気ラーメン店は数えるほど

平成初期の東京は、現在のようなラーメン専門店はまだまだ少なく、大衆的な中華料理店でラーメンを食べるのが一般的だった。その多くが醤油ラーメンか味噌ラーメン。全国各地のご当地ラーメンや、さまざまな種類のラーメンが食べられるようになるのはもう少し先のこと。今では定番の博多豚骨ラーメンも食べられる店は少なかった。

「当時はラーメン専門店が珍しかったんだよね。いろいろなところにあった『つけ麺大王』、荻窪の『春木屋』、高田馬場の『えぞ菊』、千駄ヶ谷の『ホープ軒』くらいかなぁ。ラーメンと言えば、いわゆる“町中華”的な店が多かったから。もちろん博多豚骨ラーメンも東京にはなくて。あるにはあったんだけど、ちゃんとスープを取ってなくて、業務用の素を薄めて使っているような店ばかりで、全然おいしくない。(豚骨ラーメンの店を)やるなら早い方がいいと思ったんだよね」(川原氏 以下同)

そんな状況の中、人気を誇っていたのが板橋にあった『土佐っ子ラーメン』(閉店)だ。丼を覆うほどの背脂を振りかけた一杯を求める客が連日連夜行列を作り、“環七系ラーメン”というジャンルを作りあげた。そんなラーメンに魅了された一人が後に「なんでんかんでん」を作った川原氏だ。

「環七(都道318号線=環状七号線)にすごく行列ができているところがあって気になってたんだ。実際に食べてみたら、背脂がたっぷりでこってりしていておいしかった。その当時の東京は醤油ラーメンばっかりで、博多の人間からしたら素朴すぎて物足りない。正直『貧乏くさいラーメンだなぁ』なんて思ってたの(笑)。いつも『土佐っ子ラーメン』に行くとものすごい人数のお客さんが並んでいて、それをさばいている店主の姿がカッコよく見えたんだよね。そんな多くのお客さんを見ながらラーメンを食べて、『原価はこれくらいだから、一杯で利益はこれくらいかな?』と考えてみたら、『ここの社長はすごく儲かっている! 大社長だ!』と気づいてね。そこからずっと店の立ち上げを考えるようになって。正直、それまでラーメン屋という職業はカッコ悪いと思っていました」

平成元年~10年 豚骨ラーメンブーム

昭和62(1987)年に「なんでんかんでん」がオープン。最初の2年は苦戦していたが、3年目となる平成元年ころから徐々に客が増えていった。そして、転機となったのがある客との出会いだった。

「その当時、よく来てくれるお客さんがいて、なぜかその人が来る日に限って、店の外で3~4人のお客さんが待っていたんだ。それで『この店はいつも行列している』という印象をもったんだろうね。このお客さんがアルバイト情報誌『フロムA』編集部の人で、『“行列のできる店”特集に載せたい』と言われて、店を紹介してもらったのよ」

現在のようにラーメン特集や専門誌もない時代、グルメ特集の中で1~2軒のラーメン店が紹介される程度だった。雑誌に掲載された効果は絶大で、「なんでんかんでん」には一気に客が押し寄せるようになった。こうして、東京でも“博多豚骨ラーメン”が認知されることとなり、一大ブームを巻き起こした。そのブームの背景にはバブルの名残もあったという。

「深夜まで営業してたから若者が多かったよ。夜に遊んで、シメにラーメン食って帰るみたいな。その当時は車を持ってる若者が多かったね。ほら、父親がバブルで儲かったおかげで、その子供たちも裕福だったからさ。今の若者と裕福さのレベルが違ったし、車の取り締まりも、今と比べると、いろいろと、ね? ただ、路上駐車する車が多くなり過ぎて、渋滞は起こるし、近所の人からの通報が1日50件もあるとかで、店前に毎日お巡りさんが常駐するようになったんだよね。さらに、店の反対側に駐車して道路を横断するお客さんも多くて、ついに店の前の道路に中央分離帯が作られたんだ。しかもそこだけじゃ見栄えが悪いっていうんで、結局環七全体に中央分離帯ができた。80億円くらいかかったらしいよ」 

1997年(平成9年)の店頭の様子(写真提供:なんでんかんでん)
1997年(平成9年)の店頭の様子(写真提供:なんでんかんでん)

東京都民にとっては、まったく新しい味の“博多豚骨ラーメン”が広まり、にわかにラーメンシーンが活気づいてきた。そして、平成6(1994)年、大きな出来事が訪れる。「新横浜ラーメン博物館」のオープンだ。全国各地から選りすぐられたラーメンを目指し、連日多くの客が訪れた。その結果、“ご当地ラーメンブーム”が巻き起こった。

「本当は『なんでんかんでん』にも出店依頼があったんだけど、諸事情でできなくて。それで知っている博多ラーメンの店を何店か紹介したんだ。そのうちのひとつが『一風堂』だったんだよね」

平成11年~20年、ご当地ラーメン、つけ麺、ラーメン二郎ブーム

「新横浜ラーメン博物館」のオープンで、勃発した“ご当地ラーメンブーム”。和歌山ラーメン、尾道ラーメン、旭川ラーメンなどが脚光を浴び、ラーメンのジャンルの幅が一気に広がっていった。その後、山岸一雄氏(故人)の「東池袋大勝軒」をきっかけに“つけ麺ブーム”が到来。このころから「つけ麺専門店(もしくはつけ麺がメイン)」の店が増え、つけ麺というジャンルを確立するに至った。

そして、平成12(2000)年にテレビ番組『マネーの虎』の放送が始まると、出演していた川原氏に注目が集まる。この番組で、「人気ラーメン店の店主=儲かる」というイメージが定着し、人気ラーメン店の店主が若者のあこがれの職業のひとつとして認知されるようにもなった。 

「『マネーの虎』でまた知名度が一気に上がったね。この番組を見て起業する人がすごく増えたらしいよ。ラーメン店をやりたいという若者も増えて、講演依頼やラーメン店の出店プロデュースの仕事も次から次へと舞い込んできていたね」

さらに平成15(2003)年前後からは、インターネット上でもラーメンの情報が多く飛び交うようになった。その影響からか、「ラーメン二郎」での“野菜、ニンニク、アブラ、カラメ”といった独特の注文方法が注目され、「ラーメン二郎」各店にブームが訪れる。

この後、「ラーメン二郎」で修業した店主が出す“直系”の店や、「二郎」以外の店名で出す“亜流”、「二郎」での修業経験はないが同じようなスタイルのラーメンを出す“インスパイア系”といった店が出店ラッシュを迎え、今では“ガッツリ系”というジャンルとして定番化した。

平成ラーメンブームを説明してくれる川原社長。本人は夜7時ころから店に出ていることが多いとか
平成ラーメンブームを説明してくれる川原社長。本人は夜7時ころから店に出ていることが多いとか

平成20~31年 汁なし麺、激辛ラーメン、横浜家系ラーメンブーム

平成20年代に入ると、“油そば”に代表される「汁なし麺」が注目を集める。スープがなくタレを絡めて食べるというスタイルで、スープを作らずに低コストで提供できることもあり出店が相次ぎ、これも定番化した。また、「蒙古タンメン中本」などに代表される“激辛ラーメン”人気が白熱化したのもこのころから。その流れから、「担々麺」もブームとなり、現在に至るまで数々の専門店が誕生して人気を博している。

そして、平成20年代後半になると、「吉村家」を頂点とする“家系ラーメン”がブームに。濃厚な豚骨醤油スープとライスの相性がよく、“ご飯と一緒に食べる”というスタイルが定着した。また、この家系ラーメンにインスパイアされたラーメン店も次々と出店し、「横浜家系ラーメン」と呼ばれる一大勢力が誕生した。

こうして振り返ってみると、平成という時代はラーメンが大きく花開いた時代だった。それぞれのブームが一過性に終わらず、ジャンルとして定着した。今では「ラーメンを食べる」といっても無数の選択肢がある状態だ。

平成が終わり、令和の時代になるとラーメンシーンはどんな変化を遂げるのだろうか。

「今は“店を出せば流行る”っていう時代じゃない、特にここ10年は競争で大変だね。しかも、味がよいだけでは流行らない。いろいろなラーメンが平成で出尽くしたんじゃないかと思う。これからは、“味”以外でも勝負しなきゃいけない。それに東京は家賃が高くなり過ぎて…。“日本”ではラーメン屋が儲からなくなっているからね」

ラーメン770円。海苔に文字やイラストを印刷する「プリントのり」は川原氏と株式会社大政との共同特許
ラーメン770円。海苔に文字やイラストを印刷する「プリントのり」は川原氏と株式会社大政との共同特許

令和、『RAMEN』は世界の共通語に

川原氏が指摘するように、近年のトレンドは海外出店だ。日本のラーメンは世界各地で人気を博し、行列もできるほどだという。「一風堂」「味千」をはじめ、すでに海外展開で成功を収めている店も多く、今後のラーメン店の成功の条件は海外進出がキーワードになりそうだ。

「実はイギリスとドイツで日本食レストランを展開してる会社が、『なんでんかんでん』をやりたいと言っていて、先日、ロンドンとドイツに行ってきたんだ。すでに、『一風堂』、『昇竜』、『山小屋』といったラーメン店があって、どこも行列ができてたよ。豚骨ラーメンは向こうでも人気で、成功する可能性は高いらしいんだけど……。イギリスは今、EU離脱問題で揺れているでしょう? その結果いかんでは経済状態が一気に変わるかもしれない。こればっかりは実際にその時になってみないとどうなるか分からないから」

ラーメン店の命運をヨーロッパの経済状況が影響するとは、平成初期からは考えられないことだっただろう。新時代のラーメンシーンについて、最後に川原氏のこんなコメントで締めたいと思う。

「日本のラーメンが受け入れられているということは、世界の味覚は同じだったということ。これからは世界中のいろいろなものをどこでも食べられる時代になるから、ラーメンも世界中でチャンスがあるということだね!」

  • 取材・文高橋ダイスケ撮影永田正雄

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