「住職」になった皇族も…、かつての天皇は退位後に何をしていた?

京都・仁和寺 「天皇の隠居所」を巡るミステリー

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「御室」=「天皇の隠居所」

京都市の北西にある仁和寺は、桜の名所として有名で、今年もどっさりと観光客が訪れました。その桜は御室桜(おむろざくら)として知られていますが、そもそも「御室」とは何でしょう。 地名? 品種名? いえいえ、実は「御室」とは、仁和寺のある地位を指しているのです。

平安前期に創建された仁和寺は、天皇の息子、もしくは孫といった皇室ファミリーのなかで出家した人(法親王=ほっしんのう)が、幕末まで代々住職をつとめています。彼ら天皇家の血を引いた住職のことを御室といったのです。

「御室」という言葉ができたきっかけは、初代住職をつとめた人物の僧房(部屋)を敬称して呼んだことにあります。その部屋の主とは宇多天皇(867-931)。菅原道真などを登用した宇多天皇ですが、30歳で譲位し、その2年後に出家してお坊さんとして仁和寺で余生を送ったのです。つまり、御室は平たく言えば「天皇の隠居所」のことだったともいえるでしょう。

仁和寺の御室桜。今年はとりわけ長く花を咲かせていた
仁和寺御室桜の碑

第一世(初代)の宇多天皇は、御室とは呼ばれていませんが、二世以降は一人を除き幕末までの間に28人の御室が住職をつないでいきます(第10代住職だけ摂関家である九条家出身の人物が就任していますが、この人は御室と名乗れませんでした。高級貴族なのに残念!)。

では、どうして皇室ファミリーが寺の住職になったのでしょうか。

当時の仏教は政治と深く結びついていました。宇多天皇が生きていた頃から次第に摂関政治と呼ばれる後宮政治が始まります。まさに「源氏物語」の世界です。権力者である藤原氏は娘を天皇の后として送り込み、皇子が生まれたら外戚として権力をふるうという権力体系が確立します。

しかも今と違って仏法や陰陽道などの祈祷が大真面目に信じられていた時代でした。となると、たとえば天皇の皇子が生まれるとき、内裏に上がって女御や中宮(現在の皇后)の傍で安産祈願をするには、それなりの位を持った人でなければなりません。現在でも黒田清子さんが伊勢神宮の祭主をつとめられていますが、やっぱり天皇にかわって神仏に祈るには、天皇に近い人物のほうがいいわけです。

そこで仁和寺の御室は内裏に上がり、御修法を唱えることが多かったのです。仁和寺には、18歳だった高倉天皇が兄にあたる守覚法親王(喜多院御室)に出した「あなたの御修法のおかげで無事に皇子(後の安徳天皇)が生まれたよ、ありがとう」という内容の手紙なども残っています。

こうして中世の間、仁和寺は強勢を誇りましたが、それがあだになりました。応仁の乱で西軍の本拠地として陣が構えられ、戦乱ですべての堂宇が消失してしまうのです。室町時代は天皇の権威がガタ落ちしていた時代ですから、誰も手を差しのべません。なんと仁和寺の寺は約150年間ほっぽらかしにされました。

そこへ救世主が現れます。それが、徳川幕府です。

一言でいうと、これは政治的駆け引きの結果でした。「後南御室」と呼ばれた覚深法親王は、後陽成天皇の第一皇子です。第一…?、そうです、この方、皇太子だったのです。ところが、覚深法親王のスポンサーは豊臣秀吉でした。そこで秀吉の死後、後陽成天皇によって仁和寺に追いやられ、代わりに天皇位についたのが、後水尾天皇でした。そして、後水尾天皇の中宮(皇后)・和子は、徳川秀忠の娘なのです。

覚深法親王は、上京してきた将軍・徳川家光(和子の兄)に、仁和寺再興を願い出ます。それを、家光は引き受けます。現在の壮麗な伽藍の数々は、このときに出来たもので、金堂はちょうど改築中(妹のために家光が大改造中)だった内裏の紫宸殿(=即位や退位で使う正殿)の“お古”をもらって建てられました。

元・内裏紫宸殿だった仁和寺金堂
内裏・清涼殿(天皇の日常生活の場)から移築された御影堂の金具には、葵の意匠がみえる

実は昭和天皇の時に、「御室」の復活が構想されていた

そして幕末。最後の「御室」となったのが、純仁法親王です。「楞厳定院御室」であった純仁法親王は、還俗(僧侶から一般人に戻ること)し、仁和寺宮嘉彰親王(のち小松宮彰仁親王)と名乗りました。そしてなんと、戊辰戦争の奥羽征討総督(官位は征夷大将軍!)として官軍の指揮までとっています。しかも明治維新後は、皇族が軍籍に入ることを推奨して、さっそく自分も陸軍に入り、陸軍大将、近衛師団長、参謀総長を歴任しました。血の気多すぎです。

仁和寺宮嘉彰親王(のち小松宮彰仁親王)

明治初年、政府は神仏分離令を出し、仏教と神道を切り離し、天皇家の宗教を神道と定めました。となれば、皇室ファミリーをお寺に出すはずはありません。こうして代々就任してきた「御室」は、いなくなります。30世御室の後、21人の門跡(住職)が法灯を継いでいますが、今後「御室」が存在することは、もうないでしょう――。

本当なら、ここでこの記事が終わるところですが、なんと話はここで終わりません。「幻の御室」が存在したのです。しかも、それは4月30日をもって退位された明仁天皇の父・昭和天皇でした。

終戦直前の昭和20年1月25日。仁和寺から目と鼻の先、公爵にして先の首相・近衛文麿の別邸・虎山荘で、近衛、岡田啓介元首相、米内光政海軍大臣、そして仁和寺39世門跡・岡本慈航が密談をしていました。もはや日本の敗戦は免れないが何としても国体の護持(天皇家存続)だけは守り抜きたいという彼らが構想した内容が、「降伏の折には昭和天皇に退位・出家していただき、仁和寺にお迎えする」というものだったのです。

出家した天皇は裕仁(ゆうにん)法皇と申し上げてかつて内裏であった金堂にお住まいいただき、そのさいには岡本門跡は管長に退く心づもりだったとか。そう、まさに「御室」の復活にほかなりません。実現していたら、昭和天皇は、なんという名の御室になられていたのでしょうか。

結果として、この終戦工作は密議の域を出ることはなく、長く世に知られることはありませんでした。昭和56年、宮内記者だった高橋鉱・鈴木邦彦両氏によって書かれた『天皇家の密使たち』で初めて知られることとなったのです。仁和寺にこの密約について質問したところ、寺には一切記録は残っていない、とのこと。ただし、近衛家の陽明文庫に所蔵されている日記に、会談があったという記述だけは残っていると聞いています、とのことでした。

平成31(2019)年4月30日をもって明仁天皇陛下は退位され、近代天皇制下で初めての上皇となられました。上皇陛下が出家されることはまずないと思われますが、天皇の余生、ということを私たちが考えるときに、仁和寺のような存在を知っておくのも悪いことではないと思うのです。

正門にあたる二王門脇には、「史跡 仁和寺御所址」の石碑がたつ。真言宗御室派総本山で、世界遺産にも認定されており、正式名称は「旧御室御所跡仁和寺」である。ちなみに第一世の宇多法皇は、退位後、30年あまりをここで過ごした

仁和寺/京都市右京区御室大内33

  • 取材・文・撮影花房麗子

Photo Gallary6

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