災害の少ない「金沢」だから残った珠玉の名建築の数々 | FRIDAYデジタル

災害の少ない「金沢」だから残った珠玉の名建築の数々

北陸新幹線で行ける"奇跡の都市"の魅力

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古地図だけを頼りに町歩きができる町 江戸時代から現代までの名建築が残る

北陸新幹線が開通し、首都圏からどっと観光客が押し寄せた金沢。江戸時代には「百万石の城下町」であった
北陸新幹線が開通し、首都圏からどっと観光客が押し寄せた金沢。江戸時代には「百万石の城下町」であった
浅野川沿いの「ひがし茶屋街」ができたのは1820(文政3)年
浅野川沿いの「ひがし茶屋街」ができたのは1820(文政3)年
災害事情に詳しい金沢大学防災工学研究室の池本敏和氏
災害事情に詳しい金沢大学防災工学研究室の池本敏和氏
江戸期以前の金沢古地図。浅野川の中州は埋め立てられたが、今も基本的な町割りは変わらず古地図だけを頼りに町歩きができるほどだ
江戸期以前の金沢古地図。浅野川の中州は埋め立てられたが、今も基本的な町割りは変わらず古地図だけを頼りに町歩きができるほどだ

災害の少なさが芸術を生んだ

「台風の多くは反時計回りの風雨を伴って日本列島を北上します。が、この風雨から金沢をブロックする奇跡的な位置に白山がある。また日本は太平洋、北米、フィリピン海、ユーラシアの各プレートの境界に位置してそれぞれの影響を受けますが、金沢は北米とユーラシアプレートの境界であるフォッサマグナから外れた場所に位置し、巨大地震が起きづらい」(金沢大学防災工学研究室・池本敏和氏)

戦国大名・前田利家が入府して約400年。この間、M7以上の地震は一度もなく、太平洋戦争中も陸軍第9師団の本拠があったにもかかわらず奇跡的に空襲を受けなかった「非災都市」が金沢なのだ。

災害は町の姿を大きく変えてしまうが、金沢は今も江戸期の町割りを残し、市民が我が町に強い誇りを持っている。しかも特徴的なのは、伝統だけに頼るのではなく、江戸、明治、大正、昭和、そして平成とその時代ごとに優れた建築を生み出していることだ。そのため町が重層的になり、さまざまな楽しみ方ができる。

「前田家は文化に造詣が深く、蒔絵師、塗師、細工師などを全国から招聘しました。しかも源氏物語写本を手に入れたといっては特注の箱を作るような”オーダーメイド”を尊重した。その影響で現在でも金沢の工芸家は大量生産をよしとせず、オリジナリティを追求しているのです」(加賀蒔絵師・西村松逸氏)

芸術家を生む風土が息づいているのだ。

北陸の最高学府だった第四(し)高等中学校の本館(重文)は1891(明治24)年建築。金沢は今も高等教育機関が多い
北陸の最高学府だった第四(し)高等中学校の本館(重文)は1891(明治24)年建築。金沢は今も高等教育機関が多い
現代建築の象徴は’04年開館の金沢21世紀美術館と’11年に「世界で最も美しい駅」の一つに選出された金沢駅
現代建築の象徴は’04年開館の金沢21世紀美術館と’11年に「世界で最も美しい駅」の一つに選出された金沢駅
1931(昭和6)年にできたロマネスク様式の「金沢聖霊修道院聖堂」。聖霊総合病院は今も市民の心強い味方だ
1931(昭和6)年にできたロマネスク様式の「金沢聖霊修道院聖堂」。聖霊総合病院は今も市民の心強い味方だ

工芸家を大切にする風土

金沢というと金箔や蒔絵などの伝統工芸が思い浮かぶが、実は現代工芸も盛ん。「金沢職人大学校」や若手工芸家を育成する「卯辰山工芸工房」があり、’20年には東京から国立工芸館が金沢に移転されることになった。

彼らの作品は「クラフト広坂」で展示販売されるだけでなく、市内のカフェ、料亭などでも積極的に活用され、町中で工芸家を育てる風土がある。「人と同じものは作らない」という金沢の工芸家たちの矜持が生んだ文化だ。

漆工芸は金沢を代表する伝統技術だ。その金沢漆芸会会長を務めるのが西村松逸氏。自宅の庭には藩主・前田家にあったという梅が。こうした町家は金沢市内に約6000軒残る
漆工芸は金沢を代表する伝統技術だ。その金沢漆芸会会長を務めるのが西村松逸氏。自宅の庭には藩主・前田家にあったという梅が。こうした町家は金沢市内に約6000軒残る
日本で生産される金箔の99%が金沢産。抹茶を入れる棗(なつめ=写真)の内側も金砂子がちりばめられている
日本で生産される金箔の99%が金沢産。抹茶を入れる棗(なつめ=写真)の内側も金砂子がちりばめられている
兼六園近くの「クラフト広坂」では伝統工芸の加賀水引や加賀手まりだけでなくガラスや金工細工なども揃う
兼六園近くの「クラフト広坂」では伝統工芸の加賀水引や加賀手まりだけでなくガラスや金工細工なども揃う

開場から300年! 今や観光名所で大人気 「殿様の台所」から「市民の台所」になった近江町市場を巡る

「金沢市民の台所」として親しまれてきたのが近江町市場だ。ルーツはなんと300年前に遡る。『近江町市場300年史』を編纂している石田順一氏が語る。

「近江町市場は、かつて殿様の食卓に上(のぼ)る食材を蓄える場所でした。それが明治になって市民に開放されたのです」

アーケードが完備され、細かく仕切られた市場には、金沢野菜を売る青果店、富山湾の海の幸を堪能できる鮮魚店、日用品を売る雑貨店などが軒を連ねる。最近は観光地として人気になったため、観光客用のイートインも充実している。

江戸中期の1721(享保6)年から基本的な区割りが変わっていない近江町市場。今は観光地としても大人気
江戸中期の1721(享保6)年から基本的な区割りが変わっていない近江町市場。今は観光地としても大人気
賑わいを見せる近江町市場。「金沢市民の台所」として親しまれている
賑わいを見せる近江町市場。「金沢市民の台所」として親しまれている
かつては上通り側に水産市場が、中通り側に青果市場があった。「石柱表示にその名残が」という石田氏(右)
かつては上通り側に水産市場が、中通り側に青果市場があった。「石柱表示にその名残が」という石田氏(右)
なんと300年間ほぼ街筋が変わっていない。その特徴を表しているのが、微妙にカーブした上通りと中通りに挟まれたあたり。ここはかつて金沢城の惣構(居住地を含む城の外郭)が走っており、堀に湛えられた水は今も暗渠化した用水として通りの下を流れている
なんと300年間ほぼ街筋が変わっていない。その特徴を表しているのが、微妙にカーブした上通りと中通りに挟まれたあたり。ここはかつて金沢城の惣構(居住地を含む城の外郭)が走っており、堀に湛えられた水は今も暗渠化した用水として通りの下を流れている
現在「近江町食堂」がある場所に「藩公膳所用の魚鳥」を蓄えた雪穴があった。今でもここは「穴」と呼ばれる
現在「近江町食堂」がある場所に「藩公膳所用の魚鳥」を蓄えた雪穴があった。今でもここは「穴」と呼ばれる
GW過ぎからは岩牡蠣の美味しい季節。その場でガブリと食べよう
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災害の少ない「金沢」だから残った珠玉の名建築の数々:観光名所で大人気 「市民の台所」近江町市場
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『FRIDAY』2019年4月26日号より

  • 撮影中西優写真金沢市(四高)

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