生まれ変わる秩父宮ラグビー場と昭和天皇の弟・雍仁親王の深い関係 | FRIDAYデジタル

生まれ変わる秩父宮ラグビー場と昭和天皇の弟・雍仁親王の深い関係

藤島大『ラグビー 男たちの肖像』

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都心の一等地に蹴球場を

雨の日だった。最強の一言。それはジェントルに発せられた。「ラグビー協会は貧乏だから、よろしく頼む」。秩父宮雍仁親王は、長靴姿で、そこにいた鹿島組の幹部に声をかけた。昭和天皇の弟である。かのスポーツの宮様である。まさか「いえ手前どもにもソロバンの勘定というものはございまして」なんて口にはできない。

鹿島のホームページには「昭和22年10月、ラグビー場工事が開始される。(略)実際の現場は8月ごろから開設されていたようである」(『鹿島の軌跡』)。療養中の殿下が御殿場別邸より上京、現場を訪れたのは「10月上旬」。かくして東京ラグビー競技場、のちの秩父宮ラグビー場は完成へ向かう。

あれから72年。先日、次の報道が流れた。

「老朽化した神宮球場と秩父宮ラグビー場を入れ替えて建設する東京・明治神宮外苑地区の再開発は、(5月)8日から東京都の環境アセスの手続きが始まり、事業が本格化する」(朝日新聞)。神宮第二球場を解体、同地に新・秩父宮ラグビー場を建設。その後、旧ラグビー場跡に新しく神宮球場を造る。

あらためて思う。都心の一等地の専用スタジアムの存在、鉄筋と芝に刻まれた歴史がどれほどラグビー競技の発展を呼んだことか。

伊集院浩という人物がいた。

戦前の明治大学の重戦車スクラムの前線を担ったフロントロー。学窓を出て、毎日新聞の運動部記者となる。敗戦後、神宮(のちの国立)競技場が米軍に接収され、それに替わるラグビー場建設に適した土地の情報を集めた。当時はまれな社用の自動車を使えたので身軽に動けた。

神宮外苑、女子学習院の焼け跡に目をつけ、早稲田ラグビー部出身、こちらは朝日新聞記者の鹿子木聡らと力を合わせ、各所に工作を仕掛け、借地契約の交渉を実らせた。

明治の終身監督、北島忠治の著書『ラグビー人生五十年』には「実は新宿御苑に目ぼしをつけることになった」が「宮内省との交渉で『それだけは勘弁してくれ』と言われた」との記述もある。

功労者の伊集院は各大学の夏合宿を取材で回ると、革靴をスパイクに履き替え、実際にスクラムを組んで感触を記した。後年に割腹自殺。親交を結んだプロレスラーの力道山との感情のもつれが背景とされた。

土地は見つかった。とはいえ戦後の混乱期、もとよりラグビー協会に資金などない。

「落札価格は150万円。今日の1億円にも値する金額であるが、5大学(早慶明東立)OBが1週間で5万円ずつ持ち寄り、焼け残った時計やカメラなど金目のものを売りさばき、30万円を手付として鹿島組と契約を結ぶ」(『鹿島の軌跡』)。自宅の絨毯をはがして売る者もいた。ラグビー人は手を携えて勤労奉仕に汗を流す。突貫工事はフォワードの突破のごとく前へ前へと進んだ。

聖地・花園とのご関係も

同年11月22日に開場。いわゆる「こけら落とし」は明治OB対学士ラガー、当時46歳の北島忠治は「まだ誰もグラウンドに入っていないときに、先にコーナーから入っていってボールを蹴りましたよ」と前掲書に明かしている。新競技場での「初蹴り」を以前より狙っていたのである。些事に動ぜぬ貫禄の男はどっこい抜け目もなかった。

スポーツ人がみずからの力でみずからのスタジアムを築造する。画期的だった。「世は挙げて異常なる経済的逼迫の中に苦吟している中に、各大学の先輩達が、相協力して資金の調達に奔走」。2年後に出版された『日本ラグビー物語』の一節である。

1952年9月、オックスフォード大学が来日する。戦後の国際交流の幕開けだった。同大へ留学経験のある秩父宮殿下は、卒業生をまじえた全慶應大学との初戦開始前に両軍選手を激励。続く、全早稲田、全明治戦にもその姿はあった。しかし翌年1月4日、鵠沼の別邸にて逝去、同日、大阪の花園ラグビー場では立命館大学と日本大学が対戦、黙禱および半旗で場内は哀悼の意を表した。

高校ラグビーの聖地「花園」の誕生とスポーツの宮様の関係も興味深い。1928年2月、橿原神宮ご参拝のために近畿日本鉄道の前身、大阪電気軌道に乗車、沿線の土地に目をやりながら「ここらにラグビー場をつくったらどうか」。同年12月の同社の役員会にて決議。日本ラグビー史において、その名を冠された東のラグビー場と並んで名勝負を紡いだ西の競技場とも浅からぬ関わりがあった。

プリンス・チチブはラグビーを大いに愛され、なのに同じ英国発祥のゴルフとは疎遠であった。1952年4月号の『文藝春秋』の「スポーツ縦横談」がおもしろい。「殿下はゴルフがお嫌いで、ゴルフは貴族的でいかん、とおっしゃった」と座談の相手が述べるや返した。「広い土地を少数の人だけで占領して……」。ユーモアとはこういうことではあるまいか。

最後に。ラグビーとロイヤルファミリーについての好きな逸話をひとつ。

英国のアン王女の息子、ピーター・フィリップスは1995年にスコットランドの高校代表にも選ばれたフランカーだった。主将を務めた試合の前、レフェリーは聞いた。

「おばあさんの側? それとも裏?」

コイントスである。

 

※この記事は週刊現代2019年6月1日号に掲載された連載『ラグビー 男たちの肖像』を転載したものです。
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  • 藤島大

    1961年東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。雑誌記者、スポーツ紙記者を経てフリーに。国立高校や早稲田大学のラグビー部のコーチも務めた。J SPORTSなどでラグビー中継解説を行う。著書に『ラグビーの世紀』(洋泉社)、『知と熱』(文藝春秋)、『スポーツ発熱地図』(ポプラ社)、『ラグビー大魂』(ベースボール・マガジン社)など

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