作家・半藤一利が明かす「秋篠宮に説明した『統帥権』とは何か」

そのご進講は昨年の8月15日に行われた

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悠仁親王の前で語られた「太平洋戦争」

5月1日、明仁天皇が退位して「平成」から「令和」へと時代が変わった。それに伴い、今上天皇の弟である秋篠宮文仁親王(以下・秋篠宮)が「皇嗣」となり、彼の一人息子・悠仁親王が皇位継承第二位となった。現行の皇室典範では、“次代の皇位資格者”は、悠仁親王ただ一人。秋篠宮家は、大きな役割を担うことになる。

その秋篠宮家に乞われ、「太平洋戦争はなぜ起こったか」を悠仁親王にご進講する大役を担ったのが作家・半藤一利氏(89)だ。

このご進講は、昨年8月15日に秋篠宮邸で行われた。ひと通りの話の後、同席していた父・秋篠宮から半藤氏に質問があったという。それは「『統帥権』とは何か」ということだった。事前に半藤氏の著作を読み、十分に勉強をしていたという秋篠宮が、あえて口にした問いに対して、半藤氏はどう説明をしたのだろう?

以下は半藤氏のインタビューである。

作家の半藤一利氏

「統帥権」とは何かという質問に答えるのは、非常に難しい。この言葉は昭和になってから独り歩きし、異常な力を振るいはじめるのですが、これは近代日本の成り立ちにも関係します。

日本国憲法以前に施行されていた『大日本帝国憲法』は、明治22年(1889)に成立しています。ですが、『軍人勅諭』の原形(『軍人訓誡』)ができるのは明治11年(1878)。憲法より11年も前で、要するに、日本は軍事国家としてスタートした。『軍人勅諭』には〈朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ〉という言葉がありますが、その大元帥(=天皇)の指揮権を「統帥権」と言ったのです。ここに、「軍隊は憲法より先にできたのであるから、後から成立した憲法の埒外にある」という、奇妙な認識が成り立つ余地があった。

つまり、統帥権ということの理解の根底には「憲法で決められたとおり、天皇陛下は内政と外交とを扱えばよろしい。一方、軍隊は、大元帥陛下が扱われるのだ」という考えがあるんです。しかし、そのロジックをふりかざし、突き詰めると、軍隊は大元帥直属だから、内閣とは関係ない、ということになってしまう。軍部のやることがアンタッチャブルになる。

明治から大正にかけては幕末維新をくぐり抜けた元勲たちが、藩閥という批判はあるにせよ政治と軍事をがっちり掌握していましたから、統帥権の独立という問題は表面化しませんでした。一人の君主の人格の中に天皇陛下と大元帥陛下という二つの役割があってもそれを分裂させるようなことはなかったし、させなかった。

しかし、官僚・政治家と軍人の立場がはっきり分かれてくると、この分裂に気づいた者たちがそこにつけ込む。これが戦前昭和の日本という国を非常に難しくしていったのです。その典型がロンドン海軍軍縮条約締結をめぐって昭和5年(1930)に起きた「統帥権干犯問題」でした。

陸軍大元帥の正装に身を包んだ昭和天皇

軍にまつわる出来事が起きたとき、それは果たして「天皇」の問題なのか「大元帥」の問題なのか。例えば昭和11年(1936)に二・二六事件が起きたときのことです。昭和天皇は、平素は背広を着ていましたが、事件の第一報を聞いた瞬間からは、表の御座所に軍服を着て出て行きました。これは内政問題ではなく軍事問題である。したがって自分は大元帥としてこの問題に対処しなければならない――それを昭和天皇はご存じで、だから軍服を着て皆の前に現れた。私はそう解釈しています。

二・二六事件。占拠されて反乱軍司令部となった山王ホテル

戦争を終わらせることがいかに難しいか

先ほど大元帥陛下が軍隊の指揮をとる権利のことを「統帥権」というと話しましたが、さらにややこしいことに、国家が戦争を始めるかどうかの「宣戦(=開戦)」と「講和(=終戦)」の権利は、大日本帝国憲法第13条によって、「天皇陛下」の大権として定められ、それを内閣が輔弼することとなっていた。戦争は天皇の責任になるかというと、これが難しいところで、なぜなら内閣の意見の一致を見ないと、天皇はこれを許可できなかったからです。

終戦のときが、一番わかりやすい例です。終戦決断の御前会議において、鈴木貫太郎内閣が、ポツダム宣言を受諾して降伏するという決定をし、それを昭和天皇が許可して、終戦の詔勅に御名御璽を据えて、閣僚全員が副署したわけです。それで太平洋戦争はとりあえず終わった。天皇がやめろと言ってやめたんじゃなく、あれはあくまで内閣の意志なんです。

このときかなりの数の陸海軍の軍人は「弱腰の天皇は、内閣の言うとおりに終戦などしたが、我々は、まだ『大元帥陛下』の命令を貰っていない」と言い張りました。

私たちは8月15日に終戦の詔勅を玉音放送として聞き、戦争終結したと思っていましたが、軍人たちには、そう思わない連中がいて言うことを聞かない。第五航空艦隊司令長官の宇垣纏中将は、玉音放送の5時間後に11機を率いて特攻出撃してしまったし、「降伏などしない」と武装を続けた厚木航空隊事件が起きたりしました。そこでこれは大変だと、8月16日以降に大元帥の命令として戦闘停止の通達があらためて出され、停戦の大命の主旨徹底のために、何人かの皇族が天皇の名代として大陸や南方に派遣されたのです。

大本営でも大激論があったそうです。御前会議の結果を受け、内閣=国家が意志として終戦を決め、天皇が裁可したのだから、もう武器を捨てるべきだと考える者と、いや大元帥陛下の意志はまだ示されていない、とがんばった者とがね。

そのとき、大井篤という海軍軍人が、軍令部の議論白熱した中で、「天皇陛下と大元帥陛下がいるが、その上には大大天皇陛下がいるんだ。大大天皇陛下が終戦の命を下したのだから、大元帥陛下はそれに従わなければならないのだ」と発言したといいます。もう空理空論になっているけど、そんな馬鹿馬鹿しいことが最終局面では起こっていたんですよ。

このことを、司馬遼太郎さんは「陸海軍は、国家の中に国家をつくった」と、話していた。国家の中の国家では、軍人たちは、自分たちの思うとおりにやっても、一向に構わないんだと思っており、これに実体を与えてしまうのが「統帥権」という魔法の杖だった、とね。私は統帥権だけが悪いのではなく、統帥権を振り回したやつらに罪があると思っているので、司馬さんとはこのことについて、ずいぶん議論をしました。

こうした話を丁寧にしていったため、結局、後半1時間半は、私と父宮である秋篠宮との会話に終始しました。それでも、殿下(=悠仁親王)は、あくびも身じろぎもせず、じ~っと聞いていました。時折、秋篠宮が、「統帥権という字は、こういう字だよ」と書いてあげたりしていました。

私は思うんです。平成という時代はよく保ったな、と。自衛隊はもう戦地に行ったことがある。いつ人の血が流れてもおかしくなかったと思います。それを食い止めていた存在のひとつは、上皇となった先の天皇でしょう。奥日光に疎開して終戦を迎えても、明仁皇太子は11月まで東京に帰ってくることができなかった。

それは、昭和天皇を退位させ、皇太子を皇位につけて戦争を継続しようとする軍の勢力がいくつもあったからなんです。戦争というのは、いかに終えることが難しいか、そして自分たち皇族が軍や当時の権力者に、いかに使われやすい存在であるということも、身にしみてわかっていたのではないでしょうか。

 

はんどう・かずとし/昭和5(1930)年生まれ。東大文学部を卒業後、文藝春秋入社。専務取締役を経て文筆業に。終戦の日を描いた『日本のいちばん長い日』は、ベストセラーとなり二度映画化されている。『ノモンハンの夏』『昭和史』『文士の遺言 なつかしき作家たちと昭和史』など著書多数

  • 撮影鬼怒川毅(半藤氏)

Photo Gallary3

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