他人とは違う道を進む…釜石から日本代表を目指す高卒ラガーマン
藤島大『ラグビー 男たちの肖像』
京都府立洛北高校を出て
ノスタルジーで構わないさ。
釜石には「高校」の二文字がよく似合う。
新日鐵釜石ラグビー部の黄金期、すなわち1987年度から’84年度までの日本選手権7連覇とその前後、重厚で軽快な攻守の中核を高校の出身者がなした。
順不同かつ旧校名で釜石工業、宮古工業、函館北、函館西、秋田工業、能代工業、一関工業、黒沢尻工業、大宮などなど。
無垢な心身は灼熱の溶鉱炉のコークス仕事に汗し、凍えるグラウンドで鍛えられ、いつしか都会の大学を出た同世代に伍し、それどころか凌駕して、とうとう、この国のラグビーの頂点に名を残す。
懐かしい。
2019年6月29日。東京・秩父宮ラグビー場。そんなモノクロームの記憶がにわかに色彩を帯びた。
トップリーグカップのプール戦。釜石シーウェイブスのメンバー表の「出身」欄に目を落とすと、なんとも気になる字の並びが。
「洛北高校」
横には年齢も。
「19」
それから名を見る。
「村山千里」
いったい何者だ。
京都府立洛北高校。ラグビー史に欠かせぬ存在である。敬称を略して、戦前の貴公子のごとき名センターで早稲田大学の無敗主将、川越藤一郎、戦後の快足ウイング、オールブラックスにも選ばれそうだった男、国際殿堂入りの坂田好弘、サントリーの堅牢柔軟なプロップ、中村直人などなど。旧制・京都一中のころから名手を輩出してきた。
ラグビー競技を離れても同窓には多士済々、画家の村山槐多、ふたりのノーベル物理学賞受賞者、湯川秀樹、朝永振一郎、登山家にして文化人類学者の今西錦司も学んでいる。
その後進、校史の先っぽのティーンエイジャーが、唐突なように釜石リザーブ席で出番を待っている。背番号21。スクラムハーフの控えだ。後半28分に途中出場を果たす。
クボタスピアーズに7対39で敗れ、不慣れなのか取材通路に現れず、違う場所から外へ向かう本人をなんとかつかまえて、即席のインタビューを試みる。
進学志向の強そうな高校から大学を経ずに釜石へ。どういう経緯で?
「日本代表に入ることを考えたら、社会人の強い選手にもまれたほうがよいだろうと決めました。筑波大学を受験したのですが失敗、ラグビーを離れる気はさらさらなかったので浪人はしませんでした」
同世代より、早く
高校3年の夏、京都府選抜に呼ばれ、私学強豪校の同期とボールを追った。「全然、通じる」。自信を抱いた。秋、全国大会の京都府予選は、伏見工業・京都工学院(前者から後者への校名変更の移行期)と準決勝でぶつかり散る。7対24。「詰めが甘かった」。ラグビーをきわめたい。悔いに思いはどんどんふくらんだ。
昨春卒業、4月から実質2ヵ月、フィリピンのセブ島で英語を学んだ。
「海外でコミュニケーションできるようになりたかったので」
ニュージーランド行きを模索するも、適当なクラブは見つからず、先輩の紹介で7月、釜石シーウェイブスのトライアウトを兼ねた合同練習に参加する。強気の態度がよかったのか迎え入れられた。
あらためて聞く。
家族は進学を希望しませんでしたか?
「僕の親は変わっているのか、好きにしなさいと、背中を押してくれました」
遠く三陸、釜石の地で暮らしを始める。プロ契約ではない。地元のグループホームで「朝から夕方まで」介護の職に励み、終えると、周囲は年長者ばかりの練習に臨む。
仕事、楽ではないでしょう?
「まあ大変といえば大変ですけど、おじいちゃん、おばあちゃんの笑顔に助けてもらいながら、孫のようにかわいがられながら、自分も笑顔とエナジーを絶やさず頑張ってます」
3年の実務経験を積めば介護福祉士の国家試験受験資格を得られる。そのことも視野には収まる。しかし、なによりもラグビーだ。
明確な目標がある。
「他の人の通らない道で日本代表に入り、ワールドカップで勝つ、というイメージを描いています。ここだけはブレません」
8歳。柔道をやめて先輩の勧めで山科ラグビースクールに飛び込んだ。市立音羽中学ラグビー部―洛北高校の進路でいつでも意識してきたのは「下から這い上がる」。現在は、各大学にひしめく同世代との「違い」を強く意識している。
「刺激を受けます。負けたくない。大学の人に負けたくないですね」
黄金期の新日鐵釜石、高校卒業の勇者たちは、同じ年齢の「学生さん」が卒業するまでにジャパンに入りたかった。寡黙の奥でそっと誓った。当事者がたまに明かした。
そういうストーリーを知っていますか。
「聞きました。理想ですね。僕もそんな歴史に名を刻みたいです」
その時代の若者によって、あの時代の若者の像がさらに浮かぶ。永遠の懐旧。
※この記事は週刊現代2019年7月13・20日号に掲載された連載『ラグビー 男たちの肖像』を転載したものです。
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文:藤島大
1961年東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。雑誌記者、スポーツ紙記者を経てフリーに。国立高校や早稲田大学のラグビー部のコーチも務めた。J SPORTSなどでラグビー中継解説を行う。著書に『ラグビーの世紀』(洋泉社)、『知と熱』(文藝春秋)、『スポーツ発熱地図』(ポプラ社)、『ラグビー大魂』(ベースボール・マガジン社)など