劉備は狡猾な裏切り者、孔明は戦下手!? 『三国志』英雄の実像

  • Facebook シェアボタン
  • Twitter シェアボタン
  • LINE シェアボタン
  • はてなブックマーク シェアボタン
『三国志演義』では聖人君主として神格化されている劉備玄徳。実際は信用ならない人物だったようだ

古代中国で魏、呉、蜀の三国による争いを描いた『三国志』は、多くの日本人に愛されてきた。7月9日からは東京国立博物館(台東区)で特別展が開かれ、ますます注目されている。

だがマンガや映画のモチーフとなった『三国志演義』(14世紀に作られた小説、以下『演義』)には、史実と異なる部分が多い。現在では「常識」となっている、創作された3人の英雄たちの人物像に迫る。

●人物像1:蜀皇帝・劉備玄徳は信用できない狡猾な男?

『演義』で劉備は「中山靖王劉勝(前漢第6代皇帝の子)の末裔」という高貴な出自で、多くの人に尊敬された聖人君主とされている。だが、この劉勝が食わせ者。後漢時代の『漢書』によれば、劉勝は好色家で生涯に120人もの子どもを成したという。劉備が生まれた270年後には、数万人の血縁者がいた計算になる。末裔はゴロゴロいて経歴は誤魔化しやすく、尊敬の対象でもなかったのだ。

また正史『三国志』(以下『正史』)には、劉備の性格について意外な記述が。

「口数が少なく暗い。感情を顔に出さず何を考えているかわからない」

仲間も平気で裏切ったという。若い頃は勇猛な呂布につき、呂布がピンチになると敵対する曹操に、曹操に睨まれるとライバル袁紹に、袁紹が滅びると呉の孫権のもとへ……。聖人君主どころか、信用できない狡猾な人物と評されているのだ。

●人物像2:天才軍師・諸葛亮孔明は連戦連敗の戦下手?

天下三分の計を発案し、赤壁の戦いでは100万の曹操軍を火刑で壊滅、劉備の天才軍師として連戦連勝――。『演義』での諸葛亮のイメージだ。しかし、実像は違う。天下三分の計を考えたのは呉の魯粛(ろしゅく)、赤壁で火刑を考案したのは老将・黄蓋(こうがい)、司令官として戦場に立った経験は少なく初めて指揮した5度の北伐(魏への侵攻)はいずれも敗退……。『正史』には、こう書かれている。

「諸葛亮は真面目な政治家。蜀内の食糧調達や法整備などを実直にこなした。だが軍事は不得意だったのだろう。第一次北伐では、劉備が『口先だけの男だから要職につけてはいけない』と評していた馬謖(ばしょく)を重用して大敗。その後も魏の防御を打ち破ることができず、いたずらに出陣と撤退を繰り返した」

どうやら「希代の名軍師」は後世に作られた虚像のようだ。

●人物像3:魏王・曹操孟徳は160㎝の低身長がコンプレックス?

『演義』での悪役は魏の曹操。劉備のライバルで、漢帝国をおびやかすスケールの大きい傑物として描かれている。実際は美人と見れば人妻であろうと口説き、酒を飲みながら詩歌を吟じる人間臭い人物だったようだ。コンプレックスは、およそ7尺(約160㎝)という身長の低さ。南宋時代の歴史書『世説新語』には、次のようなエピソードが記されている。

「ある時、西方の異国から使者が来た。曹操は自分の貧相な外見では舐められてしまうと、身体の大きい崔炎(さいえん)という部下を君主の座に座らせ自身は従者のように脇に控えていた。謁見が終わると、人を使い『魏王の印象はいかがでしたか』と使者に尋ねさせた。使者はこう答えたという。『魏王の体格の立派さには感服しました。ただ横にいた小柄な従者の威厳が気になります。あの方こそ百年に一度しか現れない偉人でしょう』。これを聞いた曹操は使者を警戒し、その日のうちに殺してしまった」

オーラはあっても、猜疑心の強い人物だったとされる。

『演義』はあくまで小説。史実を知ると、マンガや映画とはまったく違う英雄たちの素顔が見えてくる。

 

  • 写真akg-images/アフロ

Photo Gallary1

share icon記事をシェアする

  • Facebook シェアボタン
  • Twitter シェアボタン
  • LINE シェアボタン
  • はてなブックマーク シェアボタン

Photo Selection

あなたへのおすすめ記事を写真から

関連記事