日本経済を支えた大動脈 「東名高速」がつないだ半世紀の歴史

今年5月に全線開通から50年を迎えた、物流や人的移動の“要”を写真で振り返る

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高々と聳える工事用橋桁の上に高架が伸び、その先端では、命綱をつけた土木作業員が下をのぞき込んでいる。その脇、高速道路への上り口に掲げられたパネルには、日本道路公団が独自に開発した、”公団ゴシック”と呼ばれる書体で、「東名高速」の文字が躍っている――。

下の1枚目写真は、開通間もない東名高速との接続を目指し、首都高速3号・渋谷線が急ピッチで建設されている様子を捉えた一枚だ。

今年5月、東名高速は全線開通から半世紀を迎えた。

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東京インターと建設中の首都高速3号渋谷線。昭和46(1971)年12月、東名高速と首都高渋谷線が繋がった

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現在の東京インター。標識の文字は12m手前から判別できることが基準とされている

平野部が少なく、人口密集地帯の多い日本では、明治期に文明開化を迎えると、輸送手段の多くを鉄道に頼った。戦前までは個人で車を持つ者はまれで、道路整備は常に鉄道整備より後回しにされてきたのだ。昭和26年、建設省が「東京・神戸間高速道路調査」を開始したときのことを、元日本道路公団理事の大塚勝美氏は、こう述懐している。

〈当時、東海道は砂利道が多く、車が通ると砂塵もうもうで、2台目についていく車は相当の間隔をおいて走らねば、頭から真っ白になる状態だった。その中で、われわれは東京から名古屋まで4、5日かかって予定路線をつぶさに調査した〉(「私の高速道路建設史」)

このとき招聘したアメリカの建設会社副社長には「日本のエンジニアは勇気、創意、工夫、努力に富んでいるが、使用している機械は原始的で、アメリカの約25年前のものだ」と呆れられたという。

その5年後、今度は日本政府の要請により来日したワトキンス調査団は、〈日本の道路は信じがたいほど悪い。工業国にしてこれほど完全にその道路網を無視してきた国は、日本の他にない〉と日本の道路事情を酷評している。

統計学会会長だったワトキンスは日本の道路を克明な統計にまとめたが、それによれば昭和31年の段階で、1級国道の77%、2級国道及び都道府県道は90~96%が未舗装だったという。しかも工事がまずく、悪天候になると舗装したはずの道路でさえも支持力を失って通行不能になるありさまだった。

団塊の世代の象徴

最初の高速道路が部分開通したのは東京オリンピック前年の昭和38年、名神高速道路の栗東―尼崎IC間のこと。続く昭和40年、いよいよ東名高速の起工式が行われる。

じつはこの頃、政府内では、東京―名古屋間の高速道路建設について、中央道優先派と東名優先派の真っ二つに割れていた。結果として施工指令は、ほぼ同時に出されたが、急峻な地形に阻まれた中央道建設は、東名の後塵を拝することになった。

経済評論家の中原圭介氏が言う。

「(’47~’49年生まれの)団塊の世代がちょうど成人を迎えた昭和44(1969)年に東名高速が全線開通したことは、非常に大きな意味があると思います。彼らが社会に登場することで、物流はもちろんのこと、観光やレジャーなどあらゆる場面で大量の物資、人的移動が行われるようになり、それに伴って高速道路の需要が高まりました」 

’68年にはトヨタがマークⅡを、’69年には日産が”ハコスカ”と呼ばれたスカイライン2000GT-Rを発売。いずれも若者に絶大な人気となり、車に乗ることが格好いいとされるようになった。

「自動車が普及し始めたタイミングと高速道路の開通時期が一致し、多くの歯車がかみ合うように経済が回っていきました。まさに東名高速は、日本の高度経済成長を支えた象徴のひとつだったのだと思います」(同前)

東名高速の開通により、国道1号の時には9時間半かかっていた東京―名古屋間は4時間半ほどに短縮。東京からの日帰り旅行の観光圏が1.8倍の距離にまで伸びた。水産物や生鮮食材などの出荷範囲も拡大し、静岡の茶は全国に出荷され、シェア3割を占めるようになった。

現在では、東京と大阪を結ぶ東名・名神間を走るトラックは、日本の高速道路貨物輸送全体の7割近くに達する。東名高速が50年間で日本にもたらした経済効果は、じつに60兆円にも達すると試算されている。

高速道路を作るにあたって、日本の技術者たちがまず手本としたのはドイツのアウトバーン、そしてアメリカのハイウェイだった。だが、広大な平原が何㎞にもわたって続き、人の往来もほとんどないこれらの道路と違い、日本は平地に直線的な高速道路を作ることは難しかった。高速道路を平地に作ると、その地域の住民は何㎞も迂回して土地を横断せねばならなくなる。そのため、激しい反対運動が巻き起こったのだ。

結果として、日本の高速道路はその大部分が盛り土をした高所に作られ、下にトンネルを穿(うが)って一般道を通す形式になり、欧米の何倍もの建設費がかかった。また、沿岸部の多い東名といえども、いくつものトンネルを貫通させねばならず、さらに地震の多さに備えて設定された耐震設計基準の厳しさも建設費を押し上げた。

道路公団は民営化の際、全国の高速道路の通行料金徴収終了を2050年と定めていた。が、’14年、高速道路老朽化に伴い、料金徴収期間を2065年まで延長する法改正がなされている。とりわけ老朽化が激しいのが、日本で最もトラックの通行量が多い東名高速なのだ。

「日本は少子高齢化社会を迎えてドライバー人口が減っており、高速道路の走行台数がさらに少なくなっていくことが予想されます。かつて莫大な経済効果をもたらした東名高速ですが、今後は設備投資や維持費が負担になってくる。こうした問題を技術革新などでどう乗りきるかが課題となるでしょう」(前出・中原氏)

現在、新東名高速では、自動運転によるトラックの隊列走行実験が進められている。これは手動運転をする先頭車両のドライバーに従って、無人の後続車両が、車車間通信で連結した形で走るシステムだ。

高度経済成長の象徴だった東名高速は、次世代でも日本の象徴となることができるだろうか。

昭和40(1965)年に行われた東名高速起工式の様子。当時、東京―名古屋間の高速道路建設は中央道と東名のどちらを優先させるべきか激しい議論が続いていた
昭和44年、東京駅八重洲南口から東名高速の国鉄バス(現在の東名ハイウェイバス)に乗り込む乗客たち
昭和44年、東京駅八重洲南口から東名高速の国鉄バス(現在の東名ハイウェイバス)に乗り込む乗客たち

こんなに変わった! 交通管制

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東名開通当初の管制室は「通信管理所」といい、合板の上に手書きの路線図というスタイルで始まった。上の写真は、昭和56年頃の管制室の様子。まだ各地の道路状況を映像で確認することはできず、電話での連絡に頼っていた。下は現在の交通管制室。道路状況と交通量を同時に把握するCCTVカメラがリアルタイムに道路状況を反映。そのほか道路に埋設された磁気センサーで通過速度を測定したり、気象観測器が刻々と変化する気象データを送信してくる

半世紀を経て、変貌した東名

1969年

開通直後の静岡IC。当時の1日平均通過台数は1万6961台だった。周囲にはのどかな田園風景が広がっている

2019年

現在の通過台数は開通年の約1.5倍に。ICを下りたすぐ近くには団地や引っ越しセンターなどがひしめいている

『FRIDAY』2019年7月26日号より

  • 撮影結束武郎写真NEXCO中日本、時事通信

Photo Gallary10

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