野茂、桑田、落合……名物審判が見たレジェンドの“意外な素顔”
パ・リーグ一筋29年間1451試合に出場した名物審判が感じた'80年代、'90年代の名プレイヤーたちの矜持
プロ野球界に名物審判がいた。‘80年代から’00年代にかけてパ・リーグ一筋29年間、1451試合に出場した山崎夏生氏(64)だ。山崎氏は日刊スポーツからプロに転身した異色の名物審判。歴史に残る名勝負、名プレイヤーを間近で見てきた。テレビや新聞の報道ではわからないスター選手たちの意外な素顔を、山崎氏が紹介する。
野茂英雄「バズーカ砲のような速球に恐怖心」
近鉄のエースとして1年目から18勝をあげ沢村賞に輝いた野茂英雄のストレートは、バズーカ砲のような重みがあり、フォークは30㎝も落差があって目の前から消えました。捕手の後ろにいても、恐怖心がわくほどの球威。試合前に渡されるメンバー表に「先発・野茂」と書かれてあると、審判たちは一様にため息をついたほどです。
ただ、彼は判定にまったく興味を持っていなかった。通常の投手はボールとジャッジされれば、横に外れたのか高過ぎたのかストライクゾーンが気になるものです。しかし野茂は、そんなことおかまいなしに四球を連発してもドンドン投げてくる。彼は’95年にメジャーリーグへ移籍しますが、ある時に日本と米国のストライクゾーンの違いについて尋ねたことがあります。すると野茂は、「う~ん」とうなってしばらく考えこんでしまった。そして、アッケラカンと「気にしたことないですね」と言うんです。彼にとって、審判の判定などどうでもいい。自分で納得のいくボールが投げられれば、それで良かったんです。
桑田真澄「脱帽した“こだわりのアイシング”」
巨人で通算173勝をあげ桑田真澄も、信念を曲げない投手でした。
彼が新人の’86年5月のことです。当時の桑田はまだ二軍で、その日は群馬の高崎城南球場で西武戦に登板し完封勝利を収めました。試合後、私たちが翌日行われる長野での試合に備え移動の準備をしていると、桑田が氷で満たされたバケツを持って審判室に入ってきた。地方球場ですから、他に適当な場所がなかったのでしょう。「すいません。ここでアイシングさせてください」と、部屋の隅で火照(ほて)った右ヒジを冷やし始めたんです。
すると巨人のスタッフが、血相を変えて審判室に飛び込んできました。スタッフは部屋に入るなり、桑田を叱りつけます。「コラッ、何をやっているんだ。さっさとバスに乗れ!」と。当時の高卒ルーキーは、試合が終わると汗まみれのまま着替えもせず、ボールやバット、先輩の荷物をバスに積み込み、一番後ろの席で待機するのが常識でした。桑田はそんな慣例など無視して、ひょうひょうとこう答えるんです。「どうぞ先に行ってください。ボクは後からタクシーで追いかけますから」。彼にとって先輩の荷物を運ぶことより、疲労した右ヒジを冷やすことのほうが大事だったんです。18歳にして、このプロ根性には恐れ入りました。
桑田が一軍に昇格したのは、この一週間後のことです。
落合博満「ド肝を抜かれた打撃練習」
打者でド肝を抜かれたのは、三冠王を三度もとったロッテの落合博満さんです。
ロッテの本拠地だった川崎球場で、バッティング練習を見ていた時のこと。落合さんがケージに入ると、打撃投手が彼の身体目がけて速球を投げ始めたんです。顔や胸に硬球が直撃したら大変。大ケガをする危険性もあります。しかし、1球も打ち損じはありません。落合さんは腰をクルッと回転させると、いとも簡単に全球バットの芯で打ち返したんです。
さらに驚いたのがトスバッティング。通常は、ワンバウンドで投手に打ち返します。しかし落合はさん、まるでキャッチボールをしているように正確にライナーで投手の胸に打ち返すんです。まさに芸術技。かつてイチローが「バットをボールに当てるだけなら何百打席でもできる」と話していましたが、落合さんも同じ心境だったのでしょう。
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30年近くにわたり数多くのプレイヤーを見てきた山崎氏は、「一流になれるのは図太く自分の意思を貫ける選手」だと語る。



写真:山崎夏生氏提供