ロボットは江戸時代生まれ!? 現代人も驚く江戸の科学者5傑

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AIやロボットの進化が止まらない。新しい時代「令和」を象徴するような技術に思われているが、実は江戸時代にもロボットはあった。というより、技術大国日本の礎を作ったのが、江戸時代の技術者たちなのだ。国立科学博物館産業技術史資料情報センター長の鈴木一義氏に、そんな天才技術者5人と、それぞれが作ったものを紹介してもらった。

江戸時代の識字率は5割に達していた。これは当時、世界で類をみない高さだったとか。歌川広重 「東海道五十三次 日本橋 朝之景」(アフロ)

戦のない時代が、知識と技術の発展を促した

鎖国をしていた江戸時代。しかし、まったく他国との交易を絶っていたわけではない。長崎の出島は西洋に開かれていた貿易港であり、そこから西洋の情報が入ってきた。知識層は、そこから貪欲に知識を学び取り、日本独自の技術を発展させ、それらの知識や技術は、庶民にも伝えられた。これは、戦がなかった平和な時代だったからこそ可能だったと、鈴木一義氏は言う。

「戦がないということは、藩主は領地を広げることができない。与えられた領地でいかに領民を豊かにするかが、藩主に与えられた仕事なんです。だから、中国や西洋から入ってきた役に立ちそうな書物は日本語に訳して、みんなが読めるようにしました。徳川光圀が、藩の侍医に命じて身近な薬草の効能や使用法を、わかりやすい言葉で記した『救民妙薬』も、その一つです。光圀はそれを無料で配布しました。 

江戸時代の識字率は5割に達していた。これは当時、世界で類をみない高さです。領民も文字が読めれば、日々の生活に必要な情報を得られることを知っていたから、子どもを寺子屋に通わせた。貧乏だったら、子どもにも仕事を手伝わせたほうがいいわけでしょう。そうしなかったのは、それだけ書物が出回り、それが有用だったからです。 

戦争をしていれば、敵国に知られてはならないから、知識は一部の人たちに限られます。200年以上もの間続いた平和な時代が、広く社会全体の知識と技術力を高めたと言えます」(鈴木一義氏 以下同) 

現在のロボット、自動人形の設計図を作った「細川半蔵」(?~1796)

細川半蔵は、時計やからくり人形の仕組みを詳しく解説した『機巧図彙(からくりずい)』という書物を出版した人だ。けれど、もともとは天文学者だったという。なぜこんな本を出したのだろうか。

「西洋の天文学を行うためには精密な測定器が必要です。それがなければ、天文学者がどんなにがんばっても観測ができない。精密な測定器を作るためには腕のいい職人が必要。職人育成のために作ったのが『機巧図彙』だと思います」

からくり人形が正確に動くためには、歯車の数やかみ合い精度、それが何回転したら何メートル動くのか、きちんと計算しなくてはならない。今でいう精密工学の知識が必要だ。職人たちに近代の精密工学の基礎を教えた本だといっても過言ではない。

このような知識を詰め込んだ本が出せたのは、細川半蔵自身、「からくり半蔵」と呼ばれるほど、からくり人形を作る技術力をもっていたからだ。この本は全国に広まり、後述する田中久重をはじめとするすぐれた技術者を生み出した。

「機巧図彙」細川半蔵:1796年に細川半蔵が刊行した、からくり人形の仕組みを解説した本。江戸で出版されたのち、京都、大阪でも再販された(所蔵:国立科学博物館)
段返り人形/細川半蔵:人形がとんぼ返りしながら段を下りていく。人形を置く位置によってはとんぼ返りに失敗し、観客をハラハラさせていた(所蔵:トヨタコレクション)

天体望遠鏡を作って、世界で初めて太陽の黒点を観察した「国友一貫斎」(1778~1840)

近江国坂田郡国友村(現在の滋賀県長浜市)で生まれた国友一貫斎。この村は鉄砲鍛冶師の村で、彼もすぐれた鉄砲鍛冶師だった。ところが、戦がなくなり、鉄砲だけでは村人たちの生活が成り立たない。そのような中で、あるときオランダ製の反射式望遠鏡を見たのがきっかけで、作ってみたのが日本初の反射式望遠鏡。

「国友一貫斎は、当時国内で最高レベルの技術者。ただモノを作るだけでなく、実験をしているんです。たとえば、当時は『気圧』という概念がありませんでしたが、空気銃を作るとき、なぜ飛ぶのか、空気入れに空気をどのくらい入れれば、どのくらい飛ぶかを試している。飛ばすための原理と、構造的に気密性が必要なことを理解している。 

天体望遠鏡もそうです。当時日本の望遠鏡はガラスレンズだけでしたが、一貫斎は金属で凹面鏡を作っている。金属鏡で光を正確に1点に集める。そのためには、何度も試作して、鏡面が球面ではなく放物面でないとダメだということもつきとめています。 

さらに、望遠鏡を作っただけでなく、性能を確かめるために太陽の黒点を数えている。こんな観測をしたのは、世界で国友一貫斎が初めてです。彼は1年ぐらいしか続けませんでしたが、もっと長く観測していれば黒点の周期が11年ごとだとわかって、天文学史上最大の発見となったところです。こうした機器に通じた観測やその理解がなければ、日本の天文学は大幅に遅れていたことでしょう」

風銃/国友一貫斎:諸大名に販売されていた空気銃。箱書きには「風銃」とある(所蔵:トヨタコレクション)
天体望遠鏡/国友一貫斎:1842年に彦根藩が25両出して購入したもの。オランダ製のものより2倍大きく見えたという(所蔵:長浜城歴史博物館)

別子銅山の危機を救い、四国の塩田開発にも尽力した「久米通賢」(1780~1841)

住友財閥の発展の基礎となったと言われる、愛媛県の別子銅山。1690年に開坑し、1973年に閉山するまで銅を産出し続けた。この別子銅山の発展に大きく寄与したのが久米通賢だ。もともとは伊能忠敬と同じように天文学を学んでいたのだが、彼自身が高精度の測量器具を製作するほどの技術者でもあった。

「別子銅山には、水抜きをするために招かれたのですが、そのとき坑道の中を測量し、正確な坑道図も作成している。高松藩から讃岐国の測量と、製作を命じられて作った地図は、伊能忠敬の地図測量時に活用されるほど正確でした」

水理の知識と技術にも明るく、それに関係するさまざまな発明品を生んでいる。

「その1つが『牛旋激水(ぎゅうせんげきすい)』という、牛を動力源にして、ポンプを動かして水をくみ上げるものです。この機械を作るためにパトロンを募ったりもしました。

非常に手先が器用な人で、扇風機や天体望遠鏡も作っています。開国が迫り、国防が危うくなった時代ということもあり、大砲や鉄砲を自作したりもしています」 

さらに財政難に陥っていた高松藩を救うため、阿野郡坂出の浜に塩田を作ることを進言し、普請奉行となって塩田開発を進めた。このことから、地元の香川県では、「塩田の父」「讃岐のエジソン」とも称されている。

「西洋から入ってくる知識をどんどん取り入れて、藩や人々のために役立てようとしました。塩田の工事を継続するために、私財を投げ打ったとも言われています」

牛旋激水/久米通賢:牛を動力源としてポンプを動かす水揚機械を公開したときに配られた広告チラシ(所蔵:鎌田共済会郷土博物館)

日本最初期のカメラを製作。芸術家としても名高い「大野弁吉」(1801~1870)

天文学や暦学に関する著書を残す一方、からくり師としても知られ、さらには根付(印籠や巾着、煙草入れなどを帯に下げて携帯するために用いた滑り止め)などを作る美術家としても有名だった大野弁吉。人形が舞い踊る「舞鼓人形」、手に持った鈴を振りながら歩く「三番叟(さんばそう)人形」などのからくり人形をはじめ、ピストルや望遠鏡、時計やカメラなども作った。江戸時代の技術者には、さまざまな分野で活躍する人が多いが、その中でも飛びぬけてマルチな才能を発揮した人物だ。彼の製作品の中でも有名なのは写真機。

「彼は国内でも、かなり早い時期に写真機を作った人物ですが、実は銀板写真だけでなく、湿板写真に関する記録を残しているのです。まだ世界的にも湿板写真が発明されたばかりのころです。

銀板写真は、銀の板にヨウ素や臭素の蒸気をあててヨウ化銀の膜を生じさせ、それを感光板として画像を作る方法。湿板写真は、ガラス板にコロジオンという液体を塗り、この感光膜が湿った状態で撮影する方法です。湿板写真は、当時世界でも最先端の技術で、どうやって大野がそれを知ったのかは謎に包まれています。妻の郷里である加賀で過ごしていたとき、長崎経由の北前船のルートで知ったのかもしれません。いずれにせよ、さまざまな分野に興味をもった異能の人であったことには間違いありません」

からくり飛蛙/大野弁吉:ゼンマイの仕掛けで飛び跳ねる約3㎝の小型のからくり(所蔵:からくり記念館)

東芝の前身となる製作所を設立した江戸を代表する技術者「田中久重」(1799~1881)

「近代につながる技術者といえば、この人がいちばんでしょう。幕末から明治にかけての人で、単なる職人ではなく、今でいう工学者です。細川半蔵が作った『機巧図彙』で学んだ一人だと思います」

童子が酒杯を乗せた台車を押し、客がその杯を飲み干して台車に置くと童子が向きを変えて帰っていく、「童子盃台」をはじめ、さまざまなからくり人形を作っている。代表作は「弓射童子(ゆみいりどうじ)」だ。的に向かって弓を射るのだが、毎回成功するわけではなく、失敗もするようにプログラムされていて、的にあたるとあごを上げて得意そうに、失敗するとうつむいて悔しがっているように見える。

「まるで人間のような感情を表す人形には、現代の『鉄腕アトム』や『AIBO』、『アシモ』のような日本的なロボットにつながるように思います。日本人がロボットというと、人型のものを連想しがちなのも、ルーツはここにあると思われます」

田中久重のもう一つの代表作が「万年時計」。6角柱で、それぞれに和時計、洋時計、カレンダーなどの機構が埋め込まれ、1年に一度ゼンマイを巻けば、ほぼ正確に時を刻み続ける。驚くのが和時計の機構だ。江戸時代の日本では、「不定時法」といって、季節によって異なる昼と夜の長さを基準にしていた。昼と夜を6等分して1刻になるのだが、夏は夜より昼が長い。すると、昼の1刻は夜の1刻より長くなる。秋分や春分は1刻が夜昼等分の2時間で、夏至のころなら昼の1刻は現在の約3時間、夜の1刻は約1時間になったのだとか。日々変化する1刻の長さを自動的に調節して進むのが「万年時計」なのだ。

「田中久重は天文学を理解していたから、『万年時計』を作ることができた。科学的な知識と工学的な技術をもってモノづくりができた人なんです」

「万年時計」のあと、蒸気機関や大砲の製造に携わるようになり、明治6年に銀座に田中製造所を創設。久重没後、田中製作所は芝浦製作所を経て、現在の東芝になった。

弓射童子(ゆみいりどうじ)/田中久重:人形の童子が4本の弓を次々と的に向かって射る。ときには失敗して観客を喜ばせた(所蔵:トヨタコレクション)
万年時計/田中久重:一度ゼンマイを巻き上げれば200日以上動き続ける。時間だけでなく、月の満ち欠け、十二支なども確認できる(所蔵:東芝/展示:国立科学博物館)

「江戸時代は知識や技術を広めることで、藩を繁栄させ、国を繁栄させてきた。日本のモノづくりの根幹は、ここにあるのだと思います。国の枠など超えて、この精神をぜひ世界に広めてほしい。争いのない、平和な世の中で培われた日本のモノづくりの精神を大切にしたいと思います」

鈴木一義 国立科学博物館産業技術史資料情報センター・センター長。研究対象は、日本における技術の発展過程。とくに江戸時代から現代にかけての技術の発展状況を調査、研究している。おもな著書に「からくり人形」(学研)、「20世紀の国産車」(三樹書房)ほか。

  • 取材・文中川いづみ

Photo Gallary9

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