もし平尾誠二が生きていたら、ラグビーW杯をどう見たのか?

藤島大『ラグビー 男たちの肖像』

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1999年のパシフィック・リム選手権、日本対トンガ戦での平尾誠二氏

1991年、エジンバラで

3年前に亡くなった男の28年前の姿をまず書きたい。あの長い胴。短いわけではない脚の運びとその踏ん張りを。

先日、日本代表の過去のワールドカップを回顧する必要があった。古い映像を見返す。第2回大会。1991年の10月5日、エジンバラ、マレーフィールド競技場。胸に桜の赤白ジャージィは、濃紺の地元スコットランドとぶつかった。

前半終了近く、進む時計でちょうど40分、ジャパンのトライは完璧だった。コンパクトで精密で素早い。おーっ。現場の記者席にいたのに新鮮な驚きで声が出た。

平尾誠二、見事だ。

敵陣最深部。左スクラム起点の右展開。チーム内で「開きの空(カラ)」と呼ばれたサインプレーを繰り出す。

9番、10番、12番の平尾主将へ。

外側のセンターの13番、絶対に引き裂かれぬ絹のようであったマエストロ、朽木英次は「空」のランで内へ猛然と切り込み、もといたところの前方に空間をこしらえる。

ほぼ同時に、平尾誠二が「開き」ながらパスを受けた。スコットランドの誇る名手、クレイグ・チャーマーズ、スコット・ヘイスティングスの両名にはさまれ、同時にタックルを浴びる。グッと力をこめる様子が泣ける。

貴公子は被弾をおそれぬ前線兵士と化した。二重のヒットを縦長の胴体で吸収、脚に力を入れつつ、倒れるまでの「間(ま)」をつくっておいて、右へポッとつないだ。

後方より走り込んだのは従兄弟だった。

背番号15、細川隆弘。京都市立伏見工業(現・京都工学院)高校、同志社大学、神戸製鋼と同じ道を歩んだ。ボールをつかむや、すでに無人の小路は用意されておりインゴールへ。アイデア、スキル、それにキャプテンの腰の上あたりの青アザのもたらす文句なしのスコアである。

平尾誠二のここでの動きとスキルはいまの「オフロード」ではないか。上体でタックルを跳ね返し、球をいかす。おおむね今世紀に入り広まった方法である。その用語が人口に膾炙せぬころ、すでに日本のキャプテンは、まるで自然現象のごとく難度の高い技術をこなしていた。

あらためて手元の『友情2』(山中伸弥編・講談社)を開く。本年5月刊行。副題には「平尾誠二を忘れない」とある。

131ページ、神戸製鋼と日本代表の元センター、元木由記雄(敬称略、以下同。現・京都産業大学ヘッドコーチ)の言葉。

「平尾さんにはそれほどタックルというイメージはないと思いますが、実はタックルが強い。日本選手権で対戦したときも、タックルをされて息ができなくなった記憶があります」。それこそ猛タックルで鳴らした12番は明治大学時代、社会人では同僚となる先輩の凄みを知った。優雅な身のこなしの人気者は全身凶器の一撃もいとわなかった。

本当はタックルが強かった

最初に読んで付箋を貼った。「平尾、本当はタックルが強かった」という原稿をいつか書く際、参考になると考えたからだ。ところが前述の「前オフロード紀のオフロード」を確かめて、つまりディフェンスならぬアタックの動画に後進の証言を思い出した。

いざとなれば痛みを引き受ける。人生のスタイルにおいて冷静や沈着でよく語られた人物のそれが地金ではなかったか。

『友情2』の大本博立の追想がよい。同志社ラグビー部の同期で元センター、一言一句に飾りがなくすべて実感に満ちている。

大学時代、「誠二に案内されて」お好み焼き屋へ。「びっくりしたらあかんで」「おばちゃんのエプロン、おれがちっちゃいときから変わってへん」。以上、のちのミスター・ラグビーの発言である。「ふだんは見かけない、どこのメーカーだかわからないジュースがズラーッと並んでいて」仲間4~5人の合計の勘定は

「千円でおつりがきました」。

9月20日。ワールドカップ日本大会が始まる。存命なら56歳。不在の無念はもちろんである。ラグビー界にとって。いや、なによりも平尾誠二にとって。

早くして天才をうたわれ、国内で勝ちまくり、勝つのみにあらず「旧態スポーツの変革者」の役を担い、なかば文化人として名をはせた。実像より大きく遇されるのは世界中の名士の宿命である。

でも年齢を重ね、肩の荷をそっと下ろし、製造元不明ジュースの時代の友と、自国でのラグビーの祭典を、ただの愛好者の立場で楽しめたのでは。つい想像してしまう。

1999年のウェールズ大会。日本代表の監督を務めた。同志社入学以来の盟友で当時のコーチ、土田雅人は、前掲書に明かしている。個の強化優先では時間切れになるので「最初にジャパンの型をつくるべき」と進言した。平尾監督は答えた。

「ビジョンをしっかり出せば、絶対に個がチームになっていく」

楽観を帯びたロマン。このままの個ではとてもかなわぬという悲観。ひとつの感受性の内側で両者は複雑な織りをなした。

あれから20年。墓碑に「自由自在」と刻まれた人は、4年前の「型ありき」より「個の判断」の余地を広げたジャパンをいかに評価するだろうか。

※この記事は週刊現代2019年8月3日号に掲載された連載『ラグビー 男たちの肖像』を転載したものです。

週刊現代の最新情報はコチラ

 

  • 藤島大

    1961年東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。雑誌記者、スポーツ紙記者を経てフリーに。国立高校や早稲田大学のラグビー部のコーチも務めた。J SPORTSなどでラグビー中継解説を行う。著書に『ラグビーの世紀』(洋泉社)、『知と熱』(文藝春秋)、『スポーツ発熱地図』(ポプラ社)、『ラグビー大魂』(ベースボール・マガジン社)など

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