宿泊施設として生まれ変わる「玉音放送の間」 | FRIDAYデジタル

宿泊施設として生まれ変わる「玉音放送の間」

上皇陛下が終戦時に滞在していた歴史的建造物

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学生時代の上皇陛下(当時は皇太子)/講談社写真資料室
学生時代の上皇陛下(当時は皇太子)/講談社写真資料室

今から74年前、小学6年生の上皇陛下はこの場所にいた

2019年5月1日、「令和」の時代が始まった。

思えば、代替わりのきっかけは明仁天皇のビデオ会見だった。平成28(2016)年8月8日、国民に「生前退位」のお気持ちを明かしたことが、政府を動かし、憲政下で初めての譲位が実現。天皇の崩御という重苦しい事実なしに新時代を迎え、日本全体が明るい気持ちになった。

それからひと月あまり後の6月12日。
陶芸の里、栃木県益子町に「ましこ悠和館」という町営の施設がオープンした。この二階の東南端には「御座所」とよばれる和室がある。見事な楓の床柱がある10畳間だ。

ここは今から74年前、小学6年生だった上皇陛下(当時は皇太子)が父・昭和天皇の「玉音放送」を聞いた部屋である。ただし、場所は現在とは違っている。

この建物は、当時、奥日光にあった「南間(なんま)ホテル」の別館だった。

益子町の町営「ましこ悠和館」としてオープンした、旧「南間ホテル」別館
益子町の町営「ましこ悠和館」としてオープンした、旧「南間ホテル」別館

時計の針を令和から平成、昭和、と巻き戻してみよう。
戦時中の昭和19(1944)年、学習院初等科の学生だった明仁皇太子は戦火の拡大に伴って、日光の田母沢御用邸に疎開している。最初は沼津の御用邸に疎開したが、太平洋に面した沼津は空襲の危険ありと3ヵ月で撤退、7月に内陸の日光に移ったのだ。学習院の学友たちもその1ヵ月あまり後に日光へと疎開してきた。

そして、昭和20年、3月と5月の東京大空襲によって皇居の宮殿も焼け、いよいよ米軍の本土上陸が現実的になったことで、7月に疎開先の再移転がなされた。それが奥日光湯元の「南間ホテル」だったのだ。

このとき伊香保、軽井沢、奥日光とあった候補地のなかから奥日光が選ばれたのは、皇太子を警護していた田中義人儀仗隊長が、同級生もともに移転することを望み、そのスペースが確保できる施設が南間ホテルだったからだという。同世代の子どもたちは皇太子の「影武者」 になりうるからだ。また、戦局逼迫の中、帝国陸軍は長野県に「松代大本営」を突貫工事中であり、万が一の場合には、 皇太子を守りつつ松代へ撤退していくことが検討されていた。

当時、皇太子がどこで暮らしているかは「軍事機密」だった。当時の宮内省(現在の宮内庁)から講談社に貸し下げられた昭和20年8月10日付の皇太子近影(下)には、疎開でなくて「行啓先にて謹写」という但し書きがついている。場所についての記述は一切ない。

昭和20年8月10日。終戦5日前の明仁皇太子。後方の同級生たちは痩せ細っている/講談社写真資料室
昭和20年8月10日。終戦5日前の明仁皇太子。後方の同級生たちは痩せ細っている/講談社写真資料室

昭和20年8月15日正午。明仁皇太子が居間兼勉強部屋だったこの部屋で聞いた終戦の詔勅は、その後の生き方に大きな影響を与えた。戦後、皇太子として43年間を、そして天皇として30年を過ごした上皇陛下が、つねに「あの大戦」に立ち戻り、二度と戦争をしてはならないと繰り返しお話ししていることを知らない日本国民はいない。

その出発点は、この10畳の部屋なのだ。

陶芸の町・益子町に移転した理由

益子町の町営「ましこ悠和館」にある「玉音放送」の間
益子町の町営「ましこ悠和館」にある「玉音放送」の間

そんな歴史的価値のある場所ではあったが、戦後しばらく、その価値が顧みられることはほとんどなかった。

日光中禅寺湖の先、奥の湖畔にあった「南間ホテル」は、高度経済成長の波に乗り遅れ、急速に経営が悪化。一時期は、この別館のみ、アメリカで成功した日本人経営者に売却し、シカゴに移転させる計画も進んでいたのだという。しかし横川信夫栃木県知事が間に入って流出を食い止め、昭和48(1973)年、栃木県益子町の窯元「つかもと」の塚本武氏が別館建物のみ引き取ることとなった

陶芸の町に移転された後、この建物は、ギャラリーやイベントスペースなどとして使われていた。昭和55年には、栃木国体に出席のため同県を訪れた明仁皇太子夫妻が立ち寄り、思い出の一室に足を踏み入れている。

「ましこ悠和館」に設けられた公共スペース。栃木国体の時の両陛下のビデオが流れている
「ましこ悠和館」に設けられた公共スペース。栃木国体の時の両陛下のビデオが流れている

さて、令和の現在に戻ってこよう。

「生前退位」が取り沙汰されることとなった平成28(2016)年、「つかもと」から益子町に、この建物が無償で寄贈された。益子町観光商工課・谷口広幸氏が話す。

「老朽化して維持管理が難しい、ということでの寄贈でしたが、町でも正直、この建物をどう扱えばいいかということは議論になりました。できるかぎり現状を変えないほうが望ましいですが、基礎はかなりやられていて全面的に直さねばなりません。オープンまで3年かかったのは、2億円の予算を捻出するのにそれだけ時間がかかったということです」

益子町は陶芸の町として有名だが、町の規模は小さく、もともと宿泊施設が少なかった。

「この建物は本来、ホテルの別館だったわけですから、宿泊施設とすれば、陶芸だけではなく歴史を学ぶためのお客様も来てもらえるのでは、と考えたのです。

上皇陛下がかつて玉音放送を聞かれた間は、床の間、欄間などをはじめ、ほとんどの建具を当時の趣きを残したままにしました。その向かいには”平和のギャラリー“を作り、宿泊客でない方々も見学できるようにしています。かつて侍従や侍医の詰めていた部屋や東宮職の事務室であった場所などはリニューアルして、1階に2部屋、2階に3部屋の宿泊部屋、それに食堂を作りました。大きい構造体はできるかぎり取り除かず、かつ現代の宿泊スタイルでも十分満足してもらえるように作りなおすのに時間がかかったのです。

一番大きな改修は、かつて存在しなかった浴室設備を作ったことでしょうか。南間ホテルの別館には浴室はなく、陛下は当時、ホテル本館の浴室を使われていたようです。せっかく町営の施設となったので、益子焼の浴槽を備えた浴室を新設しました」

「御座所」階下の部屋。疎開中の皇太子は1階の寝室に寝泊まりしていた
「御座所」階下の部屋。疎開中の皇太子は1階の寝室に寝泊まりしていた
浴室には、益子焼で作られた浴槽が
浴室には、益子焼で作られた浴槽が

「ましこ悠和館」の名前も公募し、改修費用は町税だけでなくクラウドファンディングやふるさと納税で補填、そして宿泊運営者も公募した。

「本当は平成のうちにオープンできればよかったのかもしれませんが、この建物は、ただの宿泊施設ではなく、歴史的に貴重な施設ですから、そのことに配慮してくれる運営者を探しました。平和を学べる拠点として、いろいろな方に知っていただけるようにと気を配っています」

6月13日から施設自体の一般公開が始まったが、一泊朝食・夕食つきとなる予定の宿泊サービス開始は秋口を目安にしてまだ調整が続いている。

「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…」という父・昭和天皇の言葉を、上皇陛下が正座して聞いていた時から今年で74年。昭和が遠くになっていくからといって、それが記憶の中に埋もれてよいわけはない。

  • 取材・文花房麗子

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