甲子園の名将 元横浜・渡辺監督「愛甲、松坂、涌井の育て方」 | FRIDAYデジタル

甲子園の名将 元横浜・渡辺監督「愛甲、松坂、涌井の育て方」

春夏通算5度の全国制覇を成し遂げた名指揮官・渡辺元智氏。時代の変化に合わせ子どもの気質も変わる。人を育てる難しさを痛感した渡辺氏の苦闘史だ

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’98年、夏の甲子園。戦況をうかがう渡辺元智監督と松坂大輔。この大会の決勝で、横浜高は京都成章をノーヒットノーランで破り春夏連覇を達成する
’98年、夏の甲子園。戦況をうかがう渡辺元智監督と松坂大輔。この大会の決勝で、横浜高は京都成章をノーヒットノーランで破り春夏連覇を達成する

「指導者になりたてのころは、鉄拳制裁もよくしました。ミスした選手を『なにやってんだ!』と殴る。試合に負ければ、遠征先のグラウンドから学校まで、20km以上走って帰らせたこともあります」

こう振り返るのは、元横浜高校野球部監督・渡辺元智氏(もとのり、74)だ。渡辺氏は’68年に24歳の若さで同校の監督に就任。’15年夏に勇退するまで横浜を27回甲子園に導き、通算51勝、優勝5回を成し遂げた名将だ。だが指導者としての約50年間は、苦悩の連続だったという(以下、発言は渡辺氏)

「当初は理不尽な監督だったと思います。車のライトをつけっぱなしにして、夜中まで練習させたりしてね。あまりに厳しく指導したため、選手数人からグラウンドの裏山に呼び出されたこともある。『やってられねぇよ』とスゴまれましたよ。私も若かったので『不満があるならやめちまえ!』と言い返したのを覚えています」

ハードな練習のおかげで、横浜は’73年のセンバツで初優勝。だが、以降パタリと勝てなくなる。理由は渡辺氏の驕りだった。

「優勝して、OBや地元の有力者などいろいろな人から声をかけられるようになりました。食事の誘いも増え、私は夜8時以降の練習につき合わなくなったんです。浮かれていたんですよ。選手の気持ちがどんどん離れていきました」

そんな渡辺氏を叱ったのが、神奈川県野球協議会会長の藤木幸夫氏だった。

「『そんなことではダメだ! イジメるだけでは選手はついてこない。自分を戒めろ』と。目が覚めました。以後、大半の酒の誘いは辞退しています。それまで一方的に殴っていた選手とも、『調子はどうだ』となるべく会話するようにしました。こうした指導で伸びたのが、愛甲猛(元ロッテなど)です。もともと無口な子でしたが、女房の手料理を食べながら話をするうちに性格が前向きになり3年夏にはエースに成長しました」

横浜は愛甲を擁し’80年夏に優勝。鉄拳制裁は時代遅れだと感じた渡辺氏は渡米視察し、米国のノビノビした練習を取り入れる。だが、この指導法でチームに甘えが蔓延。選手は手抜きをするようになってしまう。

「これはマズイと、再び厳しく当たるようになりました。ただ以前のように、一つの指導を押しつけるようなことはしない。松坂大輔(中日)や後藤武敏(元DeNAなど)ら才能も個性も豊かな選手が多く入ってきたので、一人ひとりに合わせた指導法に変えたんです。

例えば松坂は当時から『メジャーに行きたい』と話し、意識が高かったが慢心するクセがあった。そこでキツく接しました。3年夏の甲子園で、松坂がバケツに入ったアイシング用の氷を口に入れたことがあります。私は『飲料用の氷とは衛生状態が違うんだ! 体調を崩したらどうする』と怒鳴りました。常に気を引き締めていてほしかったんです。松坂も、よく耐えてくれました」

涌井に送った生まれて初めての携帯メール

‘00年代に入ると、いくら指導しても選手たちの反応が鈍くなった。

「叱っても声をかけても、感情が表情に出ない子が多くなったんです。その一人が、’04年夏にベスト8になった時のエース涌井秀章(わくい・ひであき、ロッテ)でした。秋の県大会(横浜隼人戦)で涌井が覇気のない投球をしたことがあります。ベンチで『しっかりしろ!』と檄を飛ばしましたが、逆転負けしました」

試合後のロッカールーム。渡辺氏は涌井を叱る。

「何を考えてるんだ! ぶざまな投球をして。もうやめろ!」

涌井は何も言わない。帰りのバスの中では誰とも話さず、ずっとうつむいたまま。渡辺氏は涌井に激励の意図が通じたのかわからず不安になる。

「言い過ぎたかなと、帰宅してから生まれて初めて携帯電話から涌井にメールしました。『オマエにはエースになってもらいたいんだ。わかってくれ』と打ってね。すぐに『ありがとうございます』と返事がきた。こちらの真意が通じてホッとしました。それからです。涌井と会話ができるようになったのは。以後、筒香嘉智(つつごう・よしとも、DeNA)などにも厳しく指導した後にはフォローのメールをするようにしました」

「‘18年の夏の甲子園100回大会までやりたい」と考えていた渡辺氏だが、持病の腰痛などが悪化して’15年に引退した。

「時代の移り変わりによって、子どもたちの性質も変わりました。最近では周囲を気遣う気持ちが薄れ、エラーをしても仲間に『悪いな』と謝れる選手はほとんどいません。でも『この子をよくしよう』という情熱を持って指導すれば、必ず成長してくれます。試合中の円陣はグラウンドにしゃがみ、選手と同じ目線で話す。彼らの目を見れば、どんな精神状態かわかりますからね」

渡辺氏は現在、指導経験をいかし全国の高校や少年野球チームで講演を行っている。もう殴ることも怒鳴ることもない。悩んでいる子どもがいれば手書きの手紙を送り、こう勇気づけるのだ。「目が輝いていたよ。その後、調子はどうだ」と。

’80年、夏の甲子園ではエース愛甲猛(中央)を擁し優勝。’73年以来、2度目の全国制覇となった
’80年、夏の甲子園ではエース愛甲猛(中央)を擁し優勝。’73年以来、2度目の全国制覇となった
’98年、史上5校目の春夏連覇を成し遂げエース松坂大輔を胴上げ。明治神宮大会や愛の国体でも優勝し横浜は4冠を達成。公式戦44連勝の記録を樹立した
’98年、史上5校目の春夏連覇を成し遂げエース松坂大輔を胴上げ。明治神宮大会や愛の国体でも優勝し横浜は4冠を達成。公式戦44連勝の記録を樹立した
横浜の元監督・渡辺氏。’44年11月、神奈川県生まれ。母校・横浜では3番・中堅手として副将を務める。選手としては甲子園出場なし。神奈川大中退後、指導者に
横浜の元監督・渡辺氏。’44年11月、神奈川県生まれ。母校・横浜では3番・中堅手として副将を務める。選手としては甲子園出場なし。神奈川大中退後、指導者に
  • 元横浜高校野球部監督渡辺元智(わたなべ・もとのり)

    '44年11月、神奈川県生まれ。横浜高から神奈川大学に進学。大学では野球部に所属するも肩を故障し退部。'65年に横浜高のコーチ、'68年に監督に就任する。'15年に引退するまで甲子園通算51勝22敗、優勝5回。著書に『人生の勝者たれ』(報知新聞社)など

  • 写真渡辺氏提供

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