六花亭、中村屋、紀伊國屋 『なつぞら』を彩る3名店の成功譚

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朝ドラ『なつぞら』もいよいよ高度経済成長期に突入。仕事と子育ての両立に奮闘するなつ&一久夫婦の姿は、現在ようやく一般的になった共働き夫婦の原型と思うと感慨深い。

一方で、なつの成長を語る上で欠かせない存在である「雪月」「川村屋」「角筈屋(つのはずや)書店」のモデルとなった「六花亭」「中村屋」「紀伊國屋」という3名店も、戦後の混乱を乗り越え、ここから現在の押しも押されもせぬ老舗の姿へと変容していく。そこで、それぞれの歴史を改めて振り返ってみた。

創業者の人生やビジネスの成り立ち、今の繁栄に至るまでの道のりにはたくさんのドラマがあり、その一部が『なつぞら』でも描かれているので、その違いをぜひ楽しんでほしい。

六花亭製菓(=雪月)

六花亭 札幌本店 写真:田村翔/アフロ

「帯広の土地を思い出させるような銘菓にしたい」ーー。『なつぞら』第34回で、「雪月」の主・小畑雪之助(安田顕)がバターで作った新商品、バター煎餅「開拓者の郷」が登場した。泰樹(草刈正雄)にも渡してと、とよ(高畑淳子)がなつ(広瀬すず)に渡した赤い缶の側面に入っている、○に成の字が入った「マルセイ」のロゴと「バタ」の文字が組み合わさったデザインを見て、「六花亭製菓」(以下「六花亭」)の「マルセイバターサンド」を思い浮かべた人も多いはず。

六花亭創業の歴史は、雪之助・雪次郎(山田裕貴)親子の歩みと重なる部分が多い。「雪月」は六花亭とその前身となった「札幌千秋庵帯広支店」(以下「帯広千秋庵」)を、雪之助は創業者の小田豊四郎がモチーフにしたものだと思われる。砂糖の代わりにビートを使ったり、新しいお菓子を次々と作り出したりする雪之助は、アイデアマンだったという豊四郎にそっくりだ。

戦後、豊四郎が帯広千秋庵を再建した際に、入手しやすい材料だけで作れる「アイスクリーム」を販売し、店を繁盛させたというエピソードが残っている。アイスクリームといえば、第4回で、初めて「雪月」を訪れたなつが食べさせてもらったもの。また後年発売されたサイロの形をしたチーズサブレ「リッチランド」は、「開拓者の郷」によく似ている。

有名な「マルセイバターサンド」は、1977(昭和52)年に「六花亭製菓」と社名を変更した記念に作られたお菓子。パッケージは、十勝地方を開拓した依田勉三の「晩成社」が1905(明治38)年に北海道で初めて製品化したバター「マルセイバタ」のラベルを復刻、再デザインしたもの。第10回で、泰樹(草刈政雄)やとよも、「晩成社」と「マルセイバタ」の話に触れているのが興味深い。

豊四郎の跡を継いだ2代目の小田豊は、雪次郎のモチーフ。豊の幼少期の夢は、医者か弁護士だった。しかし高校生のときに、どの仕事に就いても良し悪しがあるのならと菓子屋になろうと決意し、大学卒業後に京都の老舗菓子屋で修行を積んだというエピソードは、心の中に夢がありつつも、父にならって「川村屋」に修行に入った雪次郎と重なる。実際に豊四郎には、「川村屋」のモチーフとなった「新宿中村屋」へ修行に出る話があったという。しかし、先方の都合で受け入れが断られたため、実現しなかった。

ちなみに第112回で、雪次郎が「オレのバター…おバター…」と笑いながら創作した「おバタ餡サンド」が登場したが、そのモチーフは六花亭の「マルセイバターサンド」だけではなく、六花亭製菓と同じ帯広発祥のお菓子店「柳月(りゅうげつ)」の、「あんバタサン」も含まれている可能性が高い。どちらも北海道のバターを使ったおいしいお菓子なので、『なつぞら』を観ながら食べ比べしてみるのも一興だ。

中村屋(=川村屋)

東京・銀座に店を構える喫茶店併設のパン屋「川村屋」のモチーフは、インドカリーで有名な「新宿中村屋」(以下「中村屋」)。1901年に相馬愛蔵によって創業された中村屋も、元は文京区本郷のパン屋だった。創業当初は、愛蔵と妻の黒光(旧姓星、本名は良。黒光、国光はペンネーム)が力を合わせ、シュークリームに着想を得たクリームパンをヒットさせて一躍人気店に。1909(明治42)年に、現在の本店である新宿に移転。道を挟んだ向かいには、後に「紀伊國屋書店」となる薪炭商「紀伊國屋」が店を構えていた。

1909(明治42)年に中村屋は、「紀伊國屋書店」の斜め向かいとなる現在の場所に移転。1927(昭和2)年に喫茶店を併設した際、その看板メニューとして本格的な調理法で作られた「純印度式カリー」を出したという事実も、川村屋の描写と重なっている。なつが「カレー」と言うと、必ず「カリー」と正すベテランウェイター・野上健也(近藤芳正)のこだわりは、店の伝統と歴史の長さの証でもあるのだ。

中村屋が純印度カリーを作ったきっかけは、愛蔵と良の娘・俊子がインド人革命家ボースをかくまい、後に結婚したことだった。『なつぞら』第44話で、雪次郎がなつにカリーの由来を話した際、前島光子(比嘉愛未)の祖母である先代マダムがインド人革命家をかくまって助けた“革命の味”と語った内容と一致する。

また、川村屋に文化の開拓者が集まるという設定も、芸術や文学に精通していた愛蔵と黒光、そしてサロンの中心人物となっていた画家の碌山を慕って、詩人の高村光太郎や新劇女優の松井須磨子ら文化人が盛んに来店していた「中村屋サロン」の様子を反映したものだろう。川村屋のメニューの中に「ボルシチ」や「ロシアケーキ」があったり、制服が民族衣装だったりするのも、亡命してきたロシアの詩人を下宿させていた時代のエピソードが元になっている。

紀伊國屋書店(=角筈屋書店)

「紀伊國屋書店」は、『なつぞら』に登場する「角筈屋書店」のモチーフになっている。社長の茂木貞一(リリー・フランキー)のモデルは創業者の田辺茂一。“夜の市長”と呼ばれ、仕事が終わると文化人や芸能人といっしょに新宿の街を飲み歩いていた田辺の生活は、『なつぞら』で描かれた茂木の様子とそっくりだ。

「紀伊國屋」は薪や炭を販売する薪炭商だったが、8代目の茂一は薪炭商を継がずに、1927(昭和2)年に、「紀伊國屋」の隣で本屋「紀伊國屋書店」を創業した。新宿中村屋が喫茶店を併設したのと同じ年だ。木造二階建ての店舗を建てた茂一は、2階にギャラリーを併設し、展示会や展覧会を積極的に開いた。また、他の書店との差別化をはかり、同人誌や文芸誌、文学書や学術書を中心とした書籍を販売。その本を目当てに、多くの文化人が店に集まるようになり、文学系の同人誌を作るなど、文化活動に勤しんだという。相馬愛蔵・黒光夫妻の「新宿中村屋」と、田辺茂一の「紀伊國屋書店」があったおかげで、新宿が文化の中心となったといってもいいだろう。

しかし「紀伊國屋書店」は戦争で大きな被害を受け、一時は廃業を考えたものの、1945(昭和20)年に事業を再開。1950年に雇った松原治の尽力で、戦前以上に大きな書店になった。書店の経営が安定して以降、茂一はほとんど経営に参加せず、夜の豪遊を繰り返していた。当時茂一と交流があった立川談志は、自著『酔人・田辺茂一伝』の中で、実は茂一が作家になりたいという思いを抱えていたのではと推察している。それを文人たちに認めてもらえない鬱屈を、飲んで晴らしていたのではと。

明るく朗らかに酒を飲む背中に、どことなく寂しさが漂う茂木の演技は、そんな哀愁をも含んでいるのかもしれない。

 

【参考サイト】

地域企業における地域ドメインと戦略創造—六花亭製菓の事例からー

北の自然亭柳月 北海道サブレサンド 十勝銘菓 あんバタサン

新宿中村屋 歴史・おいしさの秘密

紀伊國屋書店 歴史・沿革

【参考書籍】

『酔人・田辺茂一伝』立川談志著/講談社

  • 取材・文中村美奈子

    ライター。静岡県出身。ゲーム雑誌&書籍の編集ライターを経て、アニメ・漫画・映画ライターに。声優、アニメ監督、漫画家へのインタビュー記事をメインに執筆活動。

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