ジャニー喜多川氏も住人だった「ワシントンハイツ」の全貌 | FRIDAYデジタル

ジャニー喜多川氏も住人だった「ワシントンハイツ」の全貌

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1964東京オリンピックの選手村になった米軍施設

戦後、東京のど真ん中、渋谷区代々木にあった「ワシントンハイツ」。

アメリカ軍の将校とその家族が暮らすための宿舎がそこには立ち並んでいた。アメリカ人たちの華やかな暮らしぶりを見て、豊かさへの憧れを募らせていった日本人。いったい「ワシントンハイツ」とは、どんな場所だったのか。その成り立ちに詳しいジャーナリスト秋尾沙戸子氏に話を聞いた。

1946年、代々木の練兵場に占領軍基地「ワシントンハイツ」が竣工された。(写真:時事)
1946年、代々木の練兵場に占領軍基地「ワシントンハイツ」が竣工された。(写真:時事)

代々木練兵場跡地に、1940年代のアメリカがそのまま再現された 

7月末、とあるマンションの販売受付けがスタートし、注目された。『晴海フラッグ』――2020年、東京オリンピックで選手たちの宿泊施設となる、いわゆる「選手村」を利用した分譲マンションだ。場所は東京都中央区晴海。JR新橋駅と豊州市場との中間辺りに位置するため、やや不便な立地だが、第一次の受付け600戸は、高い倍率になったという。

ふりかえって、1964年の東京オリンピック。このとき選手村はどこにあったのかといえば、東京都渋谷区代々木だ。現在、代々木公園や国立代々木競技場、NHK放送センターなどがある一帯は、かつて「ワシントンハイツ」と呼ばれ、米軍将校とその家族の住宅地となっていた。「代々木選手村」は、その建物を再利用して作られた。

「東京の真ん中に、米軍の『アメリカ村』があったことを知らない若者は多いと思いますが、戦後生まれの日本人に浸透している大量生産・大量消費の感覚、アメリカ的ライフスタイルは、豊かさとデモクラシーをセットにして、ここから発信されたのです。結果、見事なまでに日本人はアメリカ好きになりました」

そう語るのは、『ワシントンハイツ――GHQが東京に刻んだ戦後』(新潮文庫)の著者でもあるジャーナリストの秋尾沙戸子氏。戦後、どのようにして「ワシントンハイツ」ができていったのか、以下、秋尾氏に聞いた。

「第二次世界大戦後、敗戦国の日本は、連合国軍最高司令官総指令部(以下GHQ)の占領下に置かれることになり、日本には40万人の兵士が送り込まれました。各地に彼らの宿舎が用意されますが、明治神宮に隣接する代々木練兵場にも、米軍将校とその家族のための『アメリカ村』が建設されました」

1945年、終戦から約1か月後の9月8日、ダグラス・マッカーサー率いる米軍一行が東京に「入城」。その日から東京中心部にあった日本軍施設の接収が始まり、日本帝国陸軍代々木練兵場にも米軍のテントが張られた。1946年7月、『ワシントンハイツ』は施工に入り、翌年9月に竣工。

「わずか1年ちょっとで、90万平米以上の広大な敷地には、同じような木造家屋が827戸建ち並びました。学校、劇場、教会、プールなどが設けられて、1940年代のアメリカがそのまま再現されたのです」 

「ワシントンハイツ」内のスーパーマーケット。食糧難にあえぐ日本人には、豊かさの象徴だった(写真:時事)
「ワシントンハイツ」内のスーパーマーケット。食糧難にあえぐ日本人には、豊かさの象徴だった(写真:時事)
「ワシントンハイツ」内のアメリカンスクールには水泳用のプールがあり、住人たちにも開放されていたという(写真:アフロ)
「ワシントンハイツ」内のアメリカンスクールには水泳用のプールがあり、住人たちにも開放されていたという(写真:アフロ)

住居はすべて家具つき。キッチン用品や電化製品もそろっていた

「ワシントンハイツ」には、平屋の一戸建てのほか、二階屋二戸建て、二階屋四戸建てなどがあり、軍人の階級や家族構成によって、家の広さは違っていたという。 

「今でも代々木公園の片隅に、木造の平屋がひとつだけ残されています。白い外壁、エメラルドグリーンの窓枠、ステンレスの流し台。当時の日本人にはモダンに見えたと思いますが、家屋はアメリカが戦時中に考え出した低価格住宅で、いわゆるプレハブのような安普請の建物でした。それでも戦後すぐの日本に十分な資材があるわけもなく、約8億円の工費も日本の負担。受注したゼネコンは潤いましたが、日本政府は矢継ぎ早に出される要求に苦労したようです」

今でも代々木公園の片隅に、木造の平屋がひとつだけ残されている(写真:アフロ)
今でも代々木公園の片隅に、木造の平屋がひとつだけ残されている(写真:アフロ)

住居はすべて家具つきで、キッチン用品や電化製品も日本が用意することになった。

「アメリカ人が好む木製の椅子や棚は、日本人は見たことがなかったため、家具のデザインに当たっては、アメリカ最大の通信販売『シアーズ・ローバック』のカタログを参考にして作られました。またキッチン用品もチーズおろし、ポテトマッシャー、アイスピックなど、当時の日本人には馴染みのないものばかりでした。 

米軍の注文を受けて生産された冷蔵庫、掃除機、洗濯機、トースターのほか、電気ストーブも各部屋に設置。床にはスチームパイプが通されて床暖房になっていたようで、アメリカ人が真冬でもTシャツ1枚で過ごすのを見て、出入りしていた日本人のメイドや新聞配達の少年たちは驚いたといいます。 

主婦はまさに有閑マダム。朝、子どもたちをスクールバスで送り出すと、ブリッジを楽しんだり、プールで泳いだり、日本の華道を学ぶ人もいました」 

電気や水は独自に供給するシステムが作られ、豊かさを謳歌する米軍兵士と家族たち。食糧難で食うや食わずの日本人が、彼らの暮らしぶりに憧れを抱くのは当然だろう。

「日本の男性が夢中になったのは色とりどりのアメリカ車。鮮やかな色のシボレーやフォード、クライスラーなど、朝夕にワシントンハイツに出入りする車を羨望のまなざしで眺め、アメリカ的価値に染まっていきます。女性の関心は、やはりファッションですね。将校夫人たちが身につけるスーツやドレス姿を通して洋服へ傾倒し、アメリカンスタイルが広がっていきました」

新聞配達員、メイドなど、特定の職種に限り、日本人の出入りが許されていた(写真:アフロ)
新聞配達員、メイドなど、特定の職種に限り、日本人の出入りが許されていた(写真:アフロ)

ジャニー喜多川氏は「ワシントンハイツ」の住人だった

新聞配達員、メイドなど、特定の職種に限り、日本人の出入りが許されていた「ワシントンハイツ」。「将校クラブ」と呼ばれる社交や娯楽を目的とした施設で仕事を得た日本人も少なからずいた。

「将校クラブにはダンスホールがあり、演奏する日本のバンドマンを集めるよう日本政府にオーダーがきます。彼らは後に日本の芸能界をけん引したり、世界に羽ばたいたりするのですが、たとえば世界的なトランペッターとして知られる日野皓正さんは、ワシントンハイツではお父さまと弟さんがタップダンサーとして舞台に立つのを裏で手伝い、ご本人は渋谷川の川原でトランペットを練習していた。やがて多くの米軍施設にあるクラブで演奏しながら腕を上げていくのです」

今年7月に亡くなったジャニーズ事務所のジャニー喜多川氏は、一時期、「ワシントンハイツ」の住人だった。日本のアメリカ大使館軍事顧問の事務職員として働いていたため、ここで暮らしていたという。

「ジャニーさんはワシントンハイツにあったグランドに近隣の子どもたちを集めて『ジャニーズ少年野球団』を率いていました。歌手・俳優として活躍中のあおい輝彦さんは代々木中学校時代にそのチームに入り、やがて他の少年とともに『ジャニーズ』というユニット名で、日本の芸能界にデビューするのです」

ジャニー喜多川氏の生い立ちやショービジネスとのかかわりについても本書では詳しく取材されているので、興味のある方はぜひ一読を。 

さて、1952年4月、サンフランシスコ講和条約が発効され、占領時代が終わると時代は動き始める。日米安保条約によって、米軍は「在日米軍」として、引き続き駐留できることになったものの、安保条約に反対する若者たちのデモが拡大し、「ワシントンハイツ」への風当たりも強くなっていったのだ。1964年の東京オリンピック開催が決定したのは、そんなときだった。

「当初、日本政府は『ワシントンハイツ』が日本に返還され、そこを選手村にすることは難しいと考えていました。ところが日本人の反米感情を危惧して、アメリカ側から全面返還を申し出てきたのです。ただし、これには条件があって、移転先として、府中空軍基地と大和空軍基地に代替施設を用意し、移転費用約80億は日本政府が負担するというものでした。日本政府は費用の面から消極的でしたが、世論の盛り上がりもあり、1962年11月より『ワシントンハイツ』の部分返還が始まりました」

1964年の完成を目指し建設が進められる東京NHK放送センターと国立代々木競技場(1963年撮影)(写真:ともにアフロ)
1964年の完成を目指し建設が進められる東京NHK放送センターと国立代々木競技場(1963年撮影)(写真:ともにアフロ)

こうして敷地の南側には国立代々木競技場とNHK放送センターが建ち、北側には既存の建物を改修して選手村が建設されていった。そして、東京オリンピックを直前に控えた1964年8月、「ワシントンハイツ」の返還は完了した。

「経緯をみると、日本人の衣食住が『ワシントンハイツ』を中心にアメリカ化されたことがよくわかります。これは米軍による巧みな計算でした。昨日まで激戦を繰り広げてきた敵国の文化を簡単に受け入れたことを不思議に思う人がいるかもしれませんが、それだけ日本人が戦争で疲弊し、日本の為政者に不信感を抱いていたのです。特にこの界隈はひどい空襲にあっていますから。戦後、人々が戦争のない未来を夢見たとき、『ワシントンハイツ』から発せられるすべてが新鮮で眩しく、ポジティブなものとして映ったのだとのだと思います。 

結果として、私たちはアメリカ的な大量消費社会へと突き進んでいきます。おかげで東京の街は、スクラップ・アンド・ビルドを繰り返し、そこに歴史の名残りはありません。今、原宿に遊びに来ている若者は、空襲による悲劇も、『ワシントンハイツ』の存在も知らないでしょう。でも、『ワシントンハイツ』がなぜ誕生したかを知れば、自分たちの豊かさが誰かの犠牲の上にあることを自覚でき、大国アメリカの思惑や大国の思考回路を理解できると思うのです」

選手村のメキシコ選手団(写真:アフロ)
選手村のメキシコ選手団(写真:アフロ)
1964年の東京五輪では、水泳とバスケットボールの競技会場として使用された 代々木第一体育館。2020年の大会ではハンドボールの会場に。日本を代表する建築家丹下健三氏によって設計された(写真:アフロ)
1964年の東京五輪では、水泳とバスケットボールの競技会場として使用された 代々木第一体育館。2020年の大会ではハンドボールの会場に。日本を代表する建築家丹下健三氏によって設計された(写真:アフロ)

NHK大河ドラマ『いだてん』でも、いよいよ第二次世界大戦から東京オリンピックへと物語は進んでいく。今一度、歴史を振り返れば、いつもの街が、きっと違ってみえてくるに違いない。 

秋尾沙戸子 名古屋生まれ。サントリー宣伝部にて雑誌広告、女性市場開発を手がけた後、ジャーナリズムの世界に入へ。「CNNデイウォッチ」やNHK総合「ナイトジャーナル」などのキャスターを勤める。インドネシア初の女性大統領メガワティの半生を描いた『運命の長女』で第12回アジア太平洋賞特別賞受賞。2009年に上梓した『ワシントンハイツ:GHQが東京に刻んだ戦後』は第58回日本エッセイスト・クラブ賞に選ばれている。現在「京都 神と仏の歳時記」編集人。

秋尾沙戸子さんの公式HPはコチラ

  • 取材・文佐藤なつ

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