あれから一ヶ月。改めて「表現の不自由展」の功罪を問う

指南役のエンタメのミカタ 第25回

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開催から3日で中止が決定された「表現の不自由展・その後」

藤子・F・不二雄の漫画『エスパー魔美』に、「くたばれ評論家」というエピソードがある。その中で、主人公の佐倉魔美の父・十朗の発する言葉が、芸術と批評の正しい関係を表していると専らの評判である。彼は画家で、高校の美術教師もしている。

そのエピソードは、ある美術雑誌に十朗の個展が取り上げられ、剣鋭介なる美術評論家の辛らつな批評に、彼がひどく怒っているシーンから始まる。これに魔美も同調。怒りが収まらない彼女は、その評論家の家に押しかけ、軽いイタズラでこらしめる――という展開だ。帰宅して、上機嫌で「悪い人には天罰が下るって、ほんとだよね、パパ」と話す魔美。「誰だい、その悪い人って?」「決まってるでしょ。剣鋭介氏よ」

ここで、父親の表情が変わる。「マミくん、それは違うぞ」そう言って、次のように諭す。「公表された作品については、見る人全部が自由に批評する権利を持つ。どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ。それがいやなら、だれにも見せないことだ」

――そう、これが芸術と批評の正しい関係である。

なんで、いきなりこんな話を始めたかというと、まだ記憶にも新しい「表現の不自由展・その後」である。あいちトリエンナーレ2019の開幕から、わずか3日で中止されたというアレ。騒動から一ヶ月が経過して、そろそろ落ち着いて議論できる環境になってきたと思うので、ここで改めて、同展を功罪両面から冷静に検証したい。

まず、いろいろ騒がれたけど、あれって、冒頭に示した『エスパー魔美』のエピソードと同様、シンプルな話なんですね。要は、「表現の不自由展・その後」を発表したら、多くの市民から電話で「けしからん!」と苦情の“感想”が寄せられたと。それ自体は市民の正当な権利なので(脅迫を除く)、問題ない。問題は、その圧倒的な市民の声を受け入れるだけのキャパシティ(事務処理能力)が運営側に不足していたこと。それでやむなく中止にした――それだけの話なんです。となると、これは明らかに主催者サイドの失態だし、作家たちにも失礼な話だ。

これ、ホンネを言えば、事務局側が“敵”(という表現が適当かどうかはさておき)を見誤ったんですね。展示内容が内容だけに、当初から「右翼団体」等から、何らかの抗議や脅しはあるだろうとは予測していたと思う。そのために愛知県警とも協議して、それ相応の対策は講じていただろう。ところが――いざフタを開けたら、声を上げたのは、少数のプロの右翼ではなく、圧倒的多数の普通の市民たちだった、と。

ちなみに、中止を決めた8月3日の夜、同展の最高責任者である2人――あいちトリエンナーレ実行委員会会長の大村秀章愛知県知事と、同・芸術監督の津田大介サンは、それぞれ記者会見で次のように中止の理由を述べている。

大村「今回の展示については、諸般の状況を総合的に考慮して、必要な対策を取るという観点から、本日までにすると」

津田「想定以上のことが、とりわけ電話で行われた。回線がパンクし、受付の人も抗議に対応することになった。対策はあったかもしれないが、抗議の過熱がそれを超えていった。想定が甘かったという批判は甘んじて受けなければならない」

――要するに、想定を上回る市民の声(電話)に心が折れたと。よく、「ガソリン携行缶を持ってお邪魔する」云々のFAXがクローズアップされがちだけど、2人の会見をよくよく精査すると、先にも述べた通り、中止に至る一番の理由は、膨大な電話に対応する事務処理能力が足りなかったからなんですね。

結局――、「表現の不自由展・その後」は、運営上のミスで中止に至ったワケで。結果的に、大村県知事と津田芸術監督の2人が表現の自由を妨げたという、実に笑えないオチになったのである。

この一連の話、教訓めいたことを言えば、ポイントは2つあって、それは「市民」と「公金(税金)」の関係性なんです。要はパブリックアートのあり方――。

なぜ、かくも多くの市民が電話口で苦情を発したかと言えば、あいちトリエンナーレに自分たちが収めた税金が使われているから。つまり、同イベントは市民がクライアント。ならば市民が口を挟むのは、至極当然の話なんです。

実際、4年前の2015年に、今回のイベントの元ネタの「表現の不自由展」が東京都内で開催された際は、今回同様、メディアが大々的に紹介したのにも関わらず、さしたる混乱も起きず、盛況のうちに終わっている。それは、会場が民間のギャラリーで、運営も有志たちの手によって行われたから。つまり――税金が1円も投入されてないから、市民たちはそこに口を挟む必要性を感じなかったんです。

え? そうは言っても、政治家などの“権力”が口を出すのはマズいだろうって?

もちろん――国や自治体などの行政が直接、表現を規制する「検閲」は、憲法第21条2項で禁じられている。もっとも、一般に「検閲」とは、民間の表現活動に行政が口を挟むケースを指すのであって、例えば、戦時下の検閲官と劇団の座付き作家とのやりとりを描いた、三谷幸喜サン脚本の舞台劇『笑の大学』の世界がそう。検閲官から笑いを削るように命じられるが、作家がホンを直すたびに、結果的にブラッシュアップされて、どんどん面白くなるというアレだ。三谷幸喜最高傑作と言っても過言じゃない――。

おっと、何の話をしていたっけ。

そうそう、政治家などの権力が口を出すのはいかがなものかという話だ。ならば、今回の河村たかし名古屋市長のケースを考えてみよう。市長の言い分は「多額の税金を使った所で(展示を)しなくてもいい」と。それ、要は税金を預かる首長の立場で、市民の声を代弁したに過ぎないんですね。しかも、意見した相手は、同展トップの大村県知事という権力者。ある意味、市民の負託を受けた市長の陳情とも。第一、河村市長に展示を止める権限はない。

というか、そもそも現代では、税金で運用される芸術祭(パブリックアート)や公立美術館(パブリックセクター)の類いに、国や自治体などの行政が安易に介入できないよう、とっくに制度設計されているんです。そのために、企画や予算を預かる芸術監督や美術館長の独立性が担保されているし、そこには一国の首相や県知事でも口出しできない。今回、あいちトリエンナーレにおいて大村県知事が「カネは出すけど、クチは出さない」と吹聴してたけど、それは制度設計上、初めからそう決まってるんです。

とはいえ――

税金で運用される芸術祭や公立美術館は、時の権力には一切忖度する必要はないけど――一方で、税金を納めるクライアントである市民には忖度した方がいい。つまり、市民の思想信条の多様性には配慮した方がいい。じゃないと、今回の「表現の不自由展・その後」のように、批判の感想が殺到して、その対応で事務局がパンクするなんて非常事態が起きてしまう。もちろん、どれだけ苦情が寄せられても、それに対応できるだけの事務処理能力(キャパシティ)を整える予算と気概があれば、何を企画しようが芸術監督の自由だけど――。

え? 欧米では、強い政治的主張の芸術祭をしばしば見かけるって?

まず、アメリカには公立の美術館はほとんど存在しないんです。あちらはノブレス・オブリージュ(寄付文化)の国なので、メトロポリタン美術館も、ボストン美術館も、ニューヨーク近代美術館(MoMA)も――有名どころの美術館は基本、民間の手によるもの。だから公金(税金)は使われておらず、市民に配慮する必要もない。よって、攻めの展覧会ができるというワケ。

欧州の場合――芸術に公金は投入されるけど、圧倒的にアートディレクターやキュレーターに教養とセンスがある。中でも現代アート最大の芸術祭と称され、ドイツで5年に一度開催される「ドクメンタ」は、常に強い政治的メッセージの作品であふれている。

例えば、直近の2017年の同展では、ナチスの焚書が行われた場所に発禁処分本を材料にパルテノン神殿(民主主義の象徴)が建てられたり、無数のトナカイの頭蓋骨で作られたカーテンでノルウェーの少数民族による政府への抗議の声を代弁したり、コーヒー豆や穀物の輸送に使われたボロボロのジュート袋が建物を覆うオブジェでアフリカから西欧諸国への富の移動を皮肉ったり、土管の中に小さな部屋を再現する作品で北アフリカからの難民の苦難の生活を描いたり――と、どれも政治的な作品だけど、その対象はワールドワイド。多様性に満ちている。

ドクメンタには世界中から多くの来場者が訪れるが、広く人々の関心を捉える展示構成になっているので、議論は起きるけど、一方的に批判が殺到するなんて非常事態にはならないのはそういうワケ。

そう、アートとは本来、あらゆる政治や宗教の束縛を受けない、圧倒的に自由なものなのだ。ナチスを批判した口で、イスラエルを非難することだってできる。それに対して、特定の思想信条を代弁したアートは、ただのプロパガンダに過ぎない。

実際、「ドクメンタ」や「ヴェネツィア・ビエンナーレ」が、広く世界中から来場者を集め、評価されるのは、一切の政治的束縛を受けず、自由だからである。特定の党派や国家に偏っていないから、どんなに強い政治的メッセージを発しようが、広く来場者の共感を得る。それこそアートディレクター(芸術監督)のセンスである。

翻って、あいちトリエンナーレはどうだろう。果たして、今回の芸術監督である津田大介サンに、そこまで現代アートに対する深い見識と、広く市民に訴えるセンスが備わっていたのか。そこはプロの美術評論家の先生たちの評価を待ちたいところ。

まぁ、個人的には、「表現の不自由展」というコピーワークはすごく好きだし、一人一人が改めて表現について考えるキッカケになったと思えば、少なくとも同展をやる意義はあったと思う。そこは功罪の「功」の部分。僕なら、このタイトルで、ここ10年ほどのSNSに支配された現代の日本社会を覆う表現の不自由――「同調圧力」と「自主規制」に支配された“闇”を検証したい。

例えば――

〇SNSで炎上して放送中止になったCMや掲出を取りやめた広告ポスターを一堂に並べ、改めて一人一人の目で見てもらい、「今見ても同じ感想か?」を問う。

〇就活中の女子大生の街角スナップを1000人分コラージュして展示。同じスーツ、同じ髪型、同じメーク、同じヒール――。

〇実際に放送されたドラマをヒントに、「自主規制」後のオリジナルのミニドラマを流す。銀行強盗のあとシートベルトをして車で逃走する犯人、盗んだバイクで走り出すのにヘルメットをかぶる少年、昭和の時代を描いたドラマなのに誰も煙草を吸わない職場、若い女性なのに液晶画面に傷一つないスマホ――etc

さて、あなたの考える「表現の不自由展」とは、どんな内容だろう?

  • 草場滋

    (くさばしげる)メディアプランナー。「指南役」代表。1998年「フジテレビ・バラエティプランナー大賞」グランプリ。現在、日経エンタテインメント!に「テレビ証券」、日経MJに「CM裏表」ほか連載多数。ホイチョイ・プロダクションズのブレーンも務める。代表作に、テレビ番組「逃走中」(フジテレビ)の企画原案、映画「バブルへGO!」(馬場康夫監督)の原作協力など。主な著書に、『テレビは余命7年』(大和書房)、『「朝ドラ」一人勝ちの法則』(光文社)、『情報は集めるな!」(マガジンハウス)、『「考え方」の考え方』(大和書房)、『キミがこの本を買ったワケ』(扶桑社)、『タイムウォーカー~時間旅行代理店』(ダイヤモンド社)、『幻の1940年計画』(アスペクト)、『買う5秒前』(宣伝会議)、『絶滅企業に学べ!』(大和書房)などがある

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