山中亮平と田村優 かつてのライバルが共に戦う特別なラグビーW杯 | FRIDAYデジタル

山中亮平と田村優 かつてのライバルが共に戦う特別なラグビーW杯

藤島大『ラグビー 男たちの肖像』

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アイルランド戦、スタメンでフルバックに入った山中亮平
アイルランド戦、スタメンでフルバックに入った山中亮平

「あきらめなくてよかった」

10年。中学1年生が、首尾よく受験浪人をせずにすんだら、大学を卒業している。それほどの歳月である。

山中亮平。31歳。神戸製鋼コベルコスティーラーズ所属。ワールドカップの日本代表の31人についに名を連ねた。万感は言葉にせずとも伝わってくる。

2009年の11月。対カナダの日本代表に初めて呼ばれた。早稲田大学3年の21歳。先立つセレクションマッチ、当時のジョン・カーワンHC(ヘッドコーチ)のコメントを覚えている。

「本日の驚きはヤマナカ」

初キャップ獲得は翌’10年5月のアラビアンガルフ戦、ところが、以後、早々に驚きを与えた才能はなかなか本当の高みへは至らなかった。’11年、’15年とワールドカップ代表からこぼれた。東海大学付属仰星高校(当時)時代に「まれなる大器」と評価されたスタンドオフの足踏みは最近まで続いた。

「追加招集男」。そんな立場だった。負傷者の補充で急に呼ばれる。複数ポジションをこなせて代表歴は長い。実力があればこそだ。招かれるのは喜ばしい。されど最初に選ばれないのだから悔しくもある。微妙だ。

本年の夏、本人はこう振り返った。「呼ばれて行って試合に出ても次は呼ばれない。(略)でも呼ばれるのは光栄なことなので、行くしかなかった。(追加招集は)全部行きました。あきらめなくてよかった」(『ラグビーマガジン』)。

8月29日。都内ホテルの「桜の間」。ジェイミー・ジョセフHCがやや早口で読み上げた最終選考リストの最後に「ヤマナカ」は含まれていた。ポジションは昨夏、神戸製鋼の慧眼の指導者、ウェイン・スミス総監督より転向を勧められたフルバックである。

気がつくと、前回大会のバックスの殊勲のヒーロー、山田章仁や立川理道は途中で外れている。10年前にウサギの跳躍で代表の座を得た男は、蹉跌の時間を過ごし、カメかもしれぬ歩みをやめず、しかるべき場所へたどり着いた。

同日。神戸製鋼の社内で当人の記者会見が開かれた。

「日本代表での姿を見せることが平尾さんへの恩返し」(神戸新聞)

故・平尾誠二さんに救われた。

コベルコスティーラーズへ加入直後、禁止薬物使用が発覚した。自覚的ではなく口髭の手入れのための育毛剤に含まれていた。現代のスポーツ界では意図のあるなしは考慮されない。言い訳無用の非寛容が原則である。2年間の出場停止処分が科せられる。練習にも参加できなくなった。

「恩返し」の背景は

同期でかつてのライバルでもあった田村優。いま二人は同じ桜のジャージィーを着てW杯の舞台に立っている
同期でかつてのライバルでもあった田村優。いま二人は同じ桜のジャージィーを着てW杯の舞台に立っている

このとき、平尾さんは、神戸製鋼のGМである。プロ契約を解除してもおかしくはなかった。でも、そうはしない。社員として残留できるよう働きかけてくれた。

総務部に配属、慣れぬ電話対応に汗をかいた。「ちやほやされていた自分が変わりました」(日刊スポーツ)。負傷などの試練によって、かえって心身が大きくなる。一流アスリートの条件だ。そして、ひとりの人間の再起への意志は、ひとりぼっちでは絶対に成就しない。「恩返し」のそれが背景である。

8月10日。本稿主人公はチャンスをものにする。パシフィック・ネーションズカップの米国代表イーグルス戦に先発起用され、後半2分、インゴールを陥れた。

当該場面、かつての好敵手ふたりが「一心同体」のごとく映った。

背番号10の田村優。

背番号15の山中亮平。

敵陣ゴール前でのしつこい攻撃。ボールが小刻みに動く。前者の背中にそっと隠れるように後者が立つ。まるで伸び切った紐につながれたように等距離を保ってポジショニングを同時に変える。焦って崩そうとせずチャンスの到来を待った。

そのときがくる。田村が球を受け、視線を前に向けたまま内へ短いパス、そこへ山中が文句なしのタイミングで走り込んだ。完璧にも近いコンビネーションだった。

両者は同期である。

田村が明治大学、山中は早稲田で、ともに新人で攻撃中枢のスタンドオフを託された。’07年度から’10年度までの早明戦で直接対決、記録をひもとくと、山中の「3勝1敗」である。あのころ、周囲の評価は、山中亮平のほうが総じて高かった。いま田村優はジャパンに不動の地位を築き、最終選考における堂々の「当確組」のひとりでもあった。いつか前を行った者は、ポジションを変更、太くはないチャンスにくらいついた。

いよいよ世界の舞台の幕が上がるのに、昔の大学ラグビーの話を持ち出すのはふさわしくないかもしれない。次元が違うではないかと。でも長く追いかけていると「あのときのふたりが、いろいろあってこうなって、手を携えてトライを奪った」という感慨にどうしても襲われる。

ワールドカップとは記憶の祭典である。

観客は、歓喜や失意の瞬間を一生の光景とする。選手は、みずからの過去を顧みて活力の源とさせる。たとえば「会社に残る道もある」と声をかけてくれた人の面影のために走り倒し吠えるのだ。

※週刊現代2019年9月14・21日号(9月9日発売)より

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  • 藤島大

    1961年東京生まれ。都立秋川高校、早稲田大学でラグビー部に所属。雑誌記者、スポーツ紙記者を経てフリーに。国立高校や早稲田大学のラグビー部のコーチも務めた。J SPORTSなどでラグビー中継解説を行う。著書に『ラグビーの世紀』(洋泉社)、『知と熱』(文藝春秋)、『スポーツ発熱地図』(ポプラ社)、『ラグビー大魂』(ベースボール・マガジン社)など

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